2014年3月31日 (月)

玉ちゃんの独り言 第29回「第二釦と割烹着」

                   玉ちゃんの独り言 第29回「第二釦と割烹着」

 今月は珍しく文学的タイトルを付けてみたのだが、タイムリーな話題なので、内容は大体見当が付くことと思います。  さて予め断っておくが、小生はおしゃれな人間ではないし、服屋の倅として生まれ育った弊害で、洋服への関心は他人より低い方だと思う。だが、飲食店を営む者として、何よりも清潔(感)に重きを置いているので、アルバイトの女子従業員に対しても、身だしなみには厳しい方だと思われる。某有名ファミリーレストランで、制服のズボンを「腰履き」している従業員(若い女の子で「見せパン」状態で働いているの)を見てビックリさせられたことがあったが、ウチなら即クビ!というより、上司店長を処分するに違いない。普段の日常(「私」。別の社会学では「ケ」)で、イマドキの服装をするのは個人の自由かもしれないが、職場という「公」(同様社会学では「ハレ」)の場で、だらしない恰好をすることは、許されないというのが、本来社会の掟なのである。このように述べると、時代錯誤のようでオーバーだと思われる向きもあるかもしれないが、昨今の服装、マナー、言葉遣い等の乱れは、日本人全体の民族的レベルの低下の結果でもあり、また要因でもあると思われるからなのだ。  

 まず「第二釦」の方だが、これはとある記者会見についてである。自称作曲家のS氏の謝罪会見をテレビで見た際、彼は第2ボタンを外していた。正式な謝罪会見であれば、常識的にはネクタイ着用が当然である。百歩譲ってノーネクタイを許すとしても、第1ボタンも留めるのが、誠意ある謝罪態度というものだ。にもかかわらず、彼は、第2ボタンも外していた。まるで芸能人がおしゃれして見せるか、スーツでナンパするホストの如く。考えてみれば、芸能人の仕事もナンパも、相手に自己の魅力を過大視せしめる一種の詐称行為と云えなくもない。どちらにしても、第2ボタンを外し、胸元を見せるのは、これから相手を騙す場合の服装と言っても過言ではないだろう。S氏の会見内容については敢えて言及を避けるが、テレビの音量をゼロにして、聴覚障害者と同じ立場で、あの画面を見てみれば、彼が謝っているのか、更なる嘘を述べようとしているのか、その姿・表情だけで余りに多くのものが伝わってくるのである。彼が行ったことがどの程度悪いことなのかは、ここでは問題ではない。服装の持つ意味が今月のテーマなのだから。  

 「割烹着」が誰を指すか? これは簡単であろう。今日本で一番バッシングされている人物なので、敢えて彼女の行った(とされる)行為を糾弾する気は小生にはない。ただ結果論ではなく、最初の大発見会見の報道時に、ある種の違和感を覚えたのは、小生だけではないはずだ。まず、若過ぎる。ルックスも化粧やアクセサリー服装トータルで良過ぎる。研究者がおしゃれでいけない理由はないが、これは並みの発見ではない。世界中の名だたる科学者たちが、寝る間も惜しんで競っている超ノーベル賞級の研究なのだ。O女史くらいのキャリアの人間がこのような歴史的大偉業を成し遂げ得る可能性は二つしかない。ひとつは彼女が百年に一人の大天才であること。だがこれは、彼女の経歴を見れば、残念ながら違うという他ない。もうひとつは、偶然に偶然が重なった結果の、まさに奇跡。多分後者だと報道を見て小生も自分を納得させた覚えがある。もちろん、結果はそのどちらでもなかった訳だが・・・ 更なる服装の違和感が「割烹着」である。確かに割烹着は手術着と似ていて、体の正面に飛び散る物を防ぐことができる。ただ家庭の主婦用の料理着なので、白衣より生地が薄いのが欠点であり、実験向きではないと思われる。もし割烹着が実験に最適な服装であれば、既にそれ用の研究者用制服が作られているはずである。そう考えれば、彼女の割烹着スタイルは、ファッションの可能性が大きいと言わざるを得ない。前述のS氏同様彼女の場合も破綻の暗示は既にあったのだ。ついでに言えば、今回被害者面をしているY大教授だが、共同執筆者である以上、何らかの責任を負うべき立場なのに、パーカー姿で記者会見に臨んでいるところに、彼の緩さ・脇の甘さを感じずにはいられなかった。事の次第は、今日現在の時点でまだまだ不明なので、この問題も内容に関する推論・論評は避けたい。あくまで今回は服装がメインなので。

 日本語の乱れが話題になってから相当な年月が経っているが、それが是正されることのないまま、かえってエスカレートしているのが現状であろう。礼儀・作法の低下に至っては、更に深刻だ。小生は仕事柄、最近正しく箸を使えない大人が増えているのが残念でならない。たぶんその原因は我々壮年世代にあると思われる。我が親世代は結構家庭教育にも躾にも厳しかったので、その反動なのか、今の壮年世代は子供に対して成績重視で、躾が甘かったのではないだろうか。その子供世代が現在親なのだから、当然その孫世代への躾は更に緩いものとなっていくのが必然である。モンスターペアレントも、この「ゆとり躾」の産物に相違ない。敗戦後の日本のスピード復興と、その後の経済成長の最大の原動力は、日本人の勤勉さと器用さであると言われている。資源を持たない国が成り上がるには、技術立国として生きていく他なかった。箸文化がその日本人の知能の高さと器用さを育てた要因のひとつであることは疑いようがない。だがこのままでは、箸を正しく使える日本人が世代を経る毎にどんどん少なくなっていくことであろう。バブル崩壊後、リーマンショック、大震災を経て再び日本が返り咲く可能性は、残念ながら現在のところ小さいと言わざるを得ない。だからと言って、戦前の修身や現在政府が推し進めている道徳教育には、疑問を感じる点が少なくない。要は、日本人として当たり前と言える最低限度の躾を家庭が施し、小学生くらいまでの情操教育を普通に行うことが大切なのである。

 話を服に戻せば、和食業界では、名のある店の料理長は必ず白衣にネクタイをしている。夏の厨房はとても暑いものだが、決してネクタイを緩めることはない。洋食の場合、着た人でないと分からない程コックコートは分厚く暑い。それでも料理長たちは第一ボタンを外したりはしない。もしかすると、それはただの痩せ我慢かもしれない。が、相手(お客様)に対する姿勢の真摯さとの表れに他ならないと小生は信じている。小生とて、他人に偉そうなことが言える程杓子定規に真面目でも、自己に厳しいわけでもない。ただ今日も真摯たらんとネクタイを締めているのである。  今日もさまざまな事件が報道されているが、幼い時に正しい躾が施されていれば、その何分の1かの犯罪は起きることが無かったとだろうと言えば、言い過ぎだろうか?

  とりあえず、「先ず塊より始めよ」である。己への自戒も含めて。

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2014年3月 2日 (日)

玉ちゃんの独り言 第28回「運と実力」

                 玉ちゃんの独り言 第28回「運と実力」


 
  これを書いているのは、ソチ・オリンピック真っ最中、浅田真央選手(以下、選手の敬称省略お許し下さい)が転倒し、メダルが絶望的となった日である。小生の予想で彼女は銅メダルだった。金ではない理由は、彼女はオリンピックの運に恵まれていない選手だと思っていたからだ。よく「運も実力の内」と言われるが、小生は少し違うと考えている。かつての「独り言」で、首相になる条件として、運が必要と書いたが、運だけを持っている人が、真の実力者とは言えないのと同様に、運は持っていなくても実力のある人は、どの世界にも存在するのだ。ただ、ここ一番の大舞台にその実力を発揮し切れない、俗にいうプレッシャーに弱い人がいる。だが彼らは、実に様々なプレッシャーに耐えてきたからこそ、素晴らしい実績を残したのであって、決して精神的に弱いわけではない。少なくとも我々凡人には耐えきれないような重圧のかかる場面を乗り越えてきた強い精神力の持ち主達なのだ。いかしそれゆえ、自らそのプレッシャーを大きくしてしまう性格の人が中にはいる。浅田真央しかり、高梨沙羅しかり。共通していたのは、金メダル以外は許されないような周囲の過剰な期待と、幼いころからマスコミに注目され、10代後半にしてそこらの大人より出来たコメントを述べていた点だ。曰く、「お世話になった方に恩返ししたい」「声援してくれる人達に応えてられるように頑張りたい」等々。アスリートとしては、もっと自己中心、我儘で良かったのに、いつのまにか、周囲の大人たちが喜ぶような「いい人」にならざるを得ない状況に追い込まれたと言っても過言ではないだろう。卓球の福原愛などもランキング1位になってから、なかなか全日本チャンピオンになれなかったのも同様であると思われる。大リーグで言えば、高校時代に過剰に騒がれた松井秀樹がこのタイプであろう。一方無名だったイチローは、愛想が無くマスコミ泣かせで有名だが、結果は断トツに残している。天才児を天才として大成させない日本の体質は、何もスポーツに限ったことでは無い。過剰にプライベートにまで入り込むマスコミや平等第一の教育、そして何よりも日本人の周囲を気にし過ぎる個人としての弱さ(集まれば長所にもなるのだが)、それらすべてが、日本人の個としての壁を作り出しているのであろう。オリンピックに話を戻せば、岩崎恭子や鈴木大地、1回目の北島康介などなど、金メダルを取る前は、普通の人として暮らしていたはずで、それほどの重圧の中オリンピックに臨んだわけではないはずだ。今回金の羽生結弦にしても半年前に彼の名前を知っていた人が、どれだけいたことか。今シーズンが始まるまでは、金メダルはパトリック・チャンで仕方がないと誰もが思っていたはずだ。3年連続世界チャンピオンのチャンのプレッシャーは、誰よりも重かったに違いない。ぽっと出の羽生に油揚げをさらわれた彼こそは、運がなかったとしか言いようがない。一方、ミスしても勝っちゃう羽生結弦の強運ぶりは見事という他ない。もし、浅田真央が岩崎恭子のような強運の持ち主であったなら、絶好調で世界を制した8年前に金メダルを取っていたに違いない。トリノ・オリンピックのシーズンは荒川静香やキム・ヨナも彼女の敵ではなかったくらい当時の彼女は強かった。浅田が日本フィギュアスケート界が生んだ最高の選手であることは、今回のオリンピックの結果で何ら変わることが無い事実なのだ。同様にモーグルの上村愛子は金メダリストの里谷多英より実力のある選手であろうし、ジャンプの葛西紀明は原田たち金メダリスト以上に元から日本のエースであったのだ。ただオリンピックの女神が彼らに微笑まなかっただけだ。飛距離で勝っても金が取れないのが何よりの証左である。競技人口の少ないお家芸の柔道やレスリングなどを除けば、大本命でそのまま金メダリストになったのは、高橋尚子や北島康介などごく僅かな人たちである。彼らは確かに運と実力を兼ね備えていた。だが、運はなくとも実力を持っている人はそれだけで立派に違いない。オリンピックに出るということは、日本で1、2位の実力の持ち主なのだから。
 ここに一人の政治家がいる。彼は、祖父が首相、父も次期総理確定と云われた大物政治家の息子でありながら、勉強が嫌いであったのか、偏差値の高い一流大学には行かず、普通のサラリーマンになった。ところが、総理目前で父が急死し、議席を継いだ彼は、父の派閥(清和会)に入ることとなる。総理総裁である派閥の長は、父の弟分だったため、特別可愛がられたのであろう、出世は早かった。だが若輩故、閣僚にはまだなれなかった官房副長官時代、当時の拉致問題で、その強硬的発言と裏腹な喋り・ルックスでお茶の間人気を博すこととなった。当時自民党の圧倒的最大派閥に膨れ上がっていた清和会の力と、マスコミ受けのする国民的人気で、あろうことか若くして首相になってしまう。派閥の長でもなく(派閥嫌いのように思われている小泉氏もちゃんと清和会会長から総裁になっている)、閣僚経験さえない総理総裁誕生は前代未聞の事だった。すごい強運の持ち主である。だが案の定、彼には重荷過ぎたのか、非常に情けない形で総理の座を放りだす羽目となってしまう。その後、民主党政権の失敗と大震災等の社会不安により、自民党政権待望論が生まれた。その際の総裁選で自派閥清和会会長を押しのけて無理やり総裁候補となった彼は、全国の自民党員の得票では、ライバル石破氏よりかなり低かったにもかかわらず、派閥と長老の力で(石破氏は、森元総理たち長老に嫌われていたとの噂がもっぱら)、現代では初めての首相返り咲きを果たしてしまった。自分で考えたはずも無い「・・・ノミクス」のパワーも大きかったに違いない。だが、彼より実力のある政治家は自民党にも山ほどいる中、二度も日本のリーダーに立った安倍晋三氏はまれに見る強運の持ち主と云わざるをえまい。願わくば、その強運を自身の野望のためではなく、真に国民のために使って頂きたいと望む今日この頃である。

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2014年2月15日 (土)

玉ちゃんの独り言 第27回「靖国参拝 VS 安重根記念館」

         玉ちゃんの独り言 第27回「靖国参拝 VS 安重根記念館」

 「安重根」という名前を元から知っていた人は、日本人全体の何%くらいいるだろうか? 入試にもクイズ番組にも出ないこの人物が、我が国の初代内閣総理大臣を暗殺したと知っている国民はいったい何人いるのだろう? ちなみに韓国で同じ質問をすれば、ほぼ100%正答であるに違いない。逆に言えば、日本人の何割かが答えられないであろう日本の最初の首相名を、韓国人は必ず答えられるのである。さまざまな問題の背景に、この歴史教育の差が関係してきているように思われる。それは単に対中・対韓外交だけに限られるわけではない。  安重根の記念館が中国のハルビン市に出来たことをマスコミは一斉に報道し、日本政府は当然のように不快の念を示し中国に抗議した。「死刑判決を受けたテロリスト」を讃える記念館を開設した中国と、彼を「義士」と称える韓国に対して、理解できない類の発言を何人かの政府要人もしているが、中韓両国にしてみれば、死刑判決を受けた犯罪人とはまさに靖国神社に祀られているA級戦犯に他ならない。つまり日本政府の安重根記念館開設批判も中韓の首相靖国参拝批判も、心情的には分からなくもない一面を持つものの、五十歩百歩の内政干渉合戦と欧米諸国に言われても仕方がない気がする。ただ問題は、一般の日本人が安重根記念館のことをすぐに忘れるのに対して、中韓両国民は靖国のことを今までもこれから先も決して忘れることはないということにある。  安倍首相の靖国神社公式参拝は非常に大きなニュースとして取り上げられた。今まであまり批判してこなかった台湾やアメリカまでもが、厳しい論調でコメントを出している。だが小生は、当初この問題に関して「独り言」を書くつもりはなかった。それは、小生が靖国神社に行ったことが無いからである。たとえ靖国神社のことを多少調べたとしても、現実に出向き遊就館の展示を見ない限り、「靖国」を語るべきではないと思っていた。しかし今回の安重根記念館開設に対する官房長官の政府見解を聞いて、ちょっと書いてみたいという気持ちが湧き上がってきたのだった。  靖国神社が問題とされる点は幾つかあるだろうが、先ず、天皇のために戦って亡くなった人々を祀るという理念の下に創設されたはずなのに、朝廷から追討命令が下った時の長州藩の切腹した家老や久坂玄瑞、武市半平太のような当時のテロリストのリーダーのような人物(もちろん倒幕に多大な影響を与えた幕末志士ではある)が祀られ、幕府軍はもちろん維新最大の功労者であった西郷隆盛さえ祀られていないということ。まさに天皇と日本のため奮闘した乃木希典や東郷平八郎もやはり入ってはいない。逆に戦死していない非戦闘員の民間人も多数祀られているというのに。これは靖国神社の前身である東京招魂社が国家全体のものではなく、明治政府の軍隊が管理するものであったからであろう。したがって祀られているのは戊辰戦争以降の薩長中心政府に都合の良い人々だけに過ぎない。つまり、靖国神社とは一般の神社のように元々日本古来の神々を祀っているわけでもなければ、国のため天皇のために犠牲になった人間を祀る目的で建立されたわけでもないのだ。一般の神社と同格の存在となった後も、明治時代から第二次世界大戦敗戦まで一貫して軍司令部が国民を戦地に駆り立てるための方便の場であったのだ。「英霊となって靖国に」という謳い文句は、好戦派の政治家と軍部が天皇陛下の御名を借りたに他ならない。そこに祀られる人物の選定は昔も今も独断的な選考基準なので、自分が祀られたくないと思っていてもそれを拒否することすら出来ないのだ。したがってそこに祀られている朝鮮民族や中華民族(当時は共に一応日本人)の遺族が分祀削除を長年求めているにも関わらず、実現することは永久にない。同様にA級戦犯の合祀も当時の宮司の一存で決まり、神社の性格上分祀されることは将来的にも決してありえないことなのだ。従って今後天皇家が参拝することも同様にないと言ってよいだろう。もう一度戦争になれば、話は違ってくるかもしれないが・・・ だがそれより小生が問題に思うのは、遊就館のことである。この館の展示内容が極めて強い色調で戦前の日本軍を賛美するものであることは有名だが、同時に興味深いのが戦前戦中に亘って「鬼畜米英」とされていたはずのアメリカに対しての憎悪的表現がいつの間にか無くなっていたらしいという事実なのだ(注、100%ではないかもしれません。念のため)。日本が戦って最も被害を与えられた相手国はアメリカであるにも関わらず、中韓はそのままで、反米的表現のみを削除するというのは極めて都合の良い政治判断と言わざるを得ない。政治判断と云えば、靖国参拝をする多くの自民党政治家の何割かは、自民党の巨大かつ強大な支持組織である日本遺族会の意向を受けてのものであることは公然の秘密である。そのもっとも顕著な例が、小泉元首相であろう。彼は首相在任期間以外は、その前後参拝していないはずなので、靖国神社そのものに思い入れがあるとは到底考えられない。対照的なのが、安倍現首相だ。彼は靖国そのものが好きらしい。たぶん、その大きな理由は、靖国神社の理念である戦前日本の美化とA級戦犯合祀ではないか。彼の大好きなおじいちゃんをA級戦犯にした東京裁判は、心情的に許せない認められないものなのであろう。確かに、東京裁判には問題点が多く、当時のインドの判事が全員無罪と述べたのは有名な話である。だが、戦後日本は東京裁判の結果を受け入れることを条件にサンフランシスコ講和条約で独立を勝ち取った以上、国の政治の代表者たる総理大臣が東京裁判の結果に文句をつけてはならないのだ。ましてや「靖国は日本のアーリントン(国立戦没者墓地)だから、参拝して何が悪いのか」などという詭弁は述べてはいけない。言うまでもなく日本でアーリントンに当たるのは「千鳥ヶ淵(戦没者墓苑)」しか存在しない。無宗教故、天皇を始め、アメリカの国務・国防両長官も献花しに行っている。もちろん歴代首相も8月15日に必ず。これで解ることは、靖国参拝に拘る政治家は、靖国でなければならないのだ。誰が祀られ誰が祀られてなかろうが、A級戦犯合祀と遊就館の存在が最も必要条件なのだ。そして政府自民党には、靖国に変わる国立追悼施設を造る気は今のところなさそうである。とすれば、中韓両国の批判もあながち見当はずれとは言えまい。  今から十数年前、若者の主張の番組にゲストとして招かれた自民党大物政治家が、面白い発言をしていた。「何故、日本の学校は現代史を詳しく教えないのか?」という疑問に対して、元文部大臣であった彼は、「(社会共産系である)日教組が多い教師たちに現代史など教えてもらっては困る」というのが政府文部省の方針だと本音を語ったのである。当時の小生も漠然と感じていたことだが、こんなストレートに内実を述べてくれたことには、正直驚いた。だが、これほどの問題発言にもかかわらず、マスコミはほとんど報道することもなかった。ただ失言癖のある彼は、その後派閥の長になったにもかかわらず、自民党総裁選への出馬機会を弟分たる安倍氏に奪われてしまった。  今回の「独り言」を書くにあたって、このテーマに関する日韓の若者のツイートを結構読ませてもらった。そこで感じたのは、マスコミが報道しているより韓国の若者にも冷静或いは好意的に日本を評価している人が多いことと、日本の若者でも自力でそれなりに歴史を勉強している者が少なくないということだった。だがもちろんそれは、ほんの一握りの人たちに過ぎない。結局今の日本では、自分から学ばなければ、真実など到底見えてこないという事である。いつの時代も、権力者達は庶民を騙すことによって自分たちの利益や目標を達成してきた。我々に必要なのは、その深意を見抜く目なのだ。

追記: 上記の内容で今月の「独り言」は〆ようと思っていたのだが、ここ数日の国会等の報道を目にするにつけ、少し蛇足を加えたくなった。  文科省が日本史を必修科目にすると決めた矢先、尖閣・竹島領土問題を教科書に記載することが発表された。教育の場で子供たちに領土について教えること自体は正当なことであり、他国に遠慮することではない。だが、どう考えても時期が悪い。現在の中・韓国と安倍政権の不仲具合からすれば、まさに火に油を注ぐことになるに決まっている。何故、今のタイミングなのだろう? 昨今の首相を見ていると、何かに急かされているかのように右傾化政策を推し進めている気がする。  安倍政権に近いと噂されたNHKの新会長が従軍慰安婦についてありえない失言をした。この件に関して国会で問われた首相は、その失言を否定も肯定もせず、放送局はいかなる圧力にも屈することなく中立を貫いてほしい由の答弁をした。ところが、かつてNHKが政府自民党の圧力で番組を改変させられた事件があった。NHKを辞めた担当のプロデューサーの証言によれば、NHK幹部に脅しをかけたのは、当時の官房副長官安倍晋三氏その人であると!  先月の「独り言」で今年は後世の歴史に残る年になるかもしれないと書いたが、政府の方向性をよくよく見極める必要を一段と感じずにはいられない今日この頃である。

 いつも以上に長く読み辛い文章に最後までお付き合い頂きまして、誠にありがとうございました。

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2014年1月 1日 (水)

玉ちゃんの独り言 第26回「愛国心と平和」

                   玉ちゃんの独り言 第26回「愛国心と平和」

  正月らしく(?)非常に仰々しいタイトルとなったが、2014年は日本人にとって、とても大きな転換点となるかもしれない年である。後世の歴史家が、あの年が日本の転機であったと記すようなことが起こる可能性が高いと言えよう。  「愛国心」と書くと多くの人が、少し気恥ずかしいような背中がむず痒い感覚に捉われるのではないか。かく云う小生もその一人である。だが愛国心とは、オリンピックやワールドカップで日本人(チーム)を応援する気持ちのことで、実はほとんどの人々が普通に意識せず持っているはずのものである。もちろん例外は存在するが・・・ 大抵の国の国民は日本人より、強い愛国心を持っている。中国・南北朝鮮然り、ロシア・アメリカ然り、その他日本と摩擦が起きる要素を持った国は、須く日本より愛国心の強い国家であると言えるであろう。愛国心の強い人から見ると日本は、そういう意味でも「普通の国」ではない訳である。小生が危惧するのは、愛国心の強さとプライドの高さは余計な衝突を生み出す源である点だ。先に述べたように、愛国心とは他国に負けたくない、勝ちたいという気持ちに繋がり、プライドの強い人は人になめられるのを極端に嫌う喧嘩っ早いタイプである。現政権は道徳教育に力を入れ、より愛国心ある若者を増やしたいらしい。アメリカから与えられた現憲法についても、気に入らないと思う人に増えてもらわないと困るのであろう。  戦後日本の平和がアメリカの核をも含めた軍事力の傘の下で保たれたという説に、小生は異論を唱える者ではない。が、日米安全保障条約が日本の平和を守ったという意見には同意できない。何故なら、世界の警察を標榜するアメリカは、ソ連・中国等の共産主義国家に日本が蹂躙されるのを黙って見過ごすことが出来ようはずもないからだ。つまり日米安保があっても無くても、結果としてアメリカは外敵から日本を守らざるを得ないのである。もちろんそれは日本のためでは無いので、日本の国土及び国民に被害が出ることもやむを得ないというスタンスに変わってくるが。とにかく戦後日本は一度も戦争に手を染めることなく、不戦平和を貫いてきた。それを一国平和主義と揶揄する向きもあるが、少なくとも日本人と日本の繁栄に寄与してきたことは間違いない事実である。同時に中国や韓国を始めとする東アジア諸国に大いなる安心感を与えてきたという側面も決して小さくないであろう。それに最も寄与したのは、日米安保ではなく、平和憲法の存在であったことは間違いない。したがって、集団的自衛権行使による安保強化は、東アジア各国に多大な不安感を与えることになろう。政府は、集団的自衛権の行使の範囲を極めて狭いものに限定すると強調して、日本国民や諸外国に理解を求めようとしているが、集団的自衛権とは、自衛隊員が日本(人)を守るためではない目的で、外国人を殺すことに他ならない(そこが既に存在する個別自衛権との差)。いかにもっともらしい理由を付けても日本がこれまで平和憲法の下で守ってきた不戦の誓いを破ることに変わりはないのだ。NSC、特定秘密保護法、武器輸出三原則を破るなど、現政権は、徐々に集団的自衛権と憲法9条改変に向けての布石を打ってきている。衆参院のねじれ現象という障害もなくなった今、政府自民党に解散総選挙する意味はない。基本的にやりたい放題なのだ。そしてそれは国民の選択の結果、つまり民意とされる。だが、国民はこの状況を望んだのだろうか? もしそうでないとすれば、どうするのが良いのだろうか? 一人一人が考える必要がありそうだ。  冬季オリンピック、消費税増税、ワールドカップと、大きな話題が目白押しの2014年であるが、この年が後世の歴史で、戦後ではなく、戦前と記されることがないことを只々願うのみである。

2013年12月 1日 (日)

玉ちゃんの独り言 第25回「特定秘密保護法案について」

                  玉ちゃんの独り言 第25回「特定秘密保護法案について」

 昨夜特定秘密保護法案は衆議院で可決した。一部では治安維持法の再来のように非難されているこの法律が何故こうもあっさりと通ってしまうのだろうか? もちろん現与党は衆参両議会で多数を持っており、さらに内閣支持率も高い位置でキープされている以上、どんな法律でも作れて不思議はないのだが、何か違う気がする。法案通過は今日のトップニュースであるが、ほとんどのマスコミや有識者の多くが反対だったにも拘わらず、こうなる前にマスコミ、特にテレビがこの法案とその問題点について国民に分かりやすく説明していたかというと、甚だ疑問を持たざるを得ない。確かにこの法律は消費税やTPPと違って、一般市民の生活に即影響を与える可能性は少ないと思われている。だが、この法案に強く反発する人々の意見によれば、これは政府が国民を監視し、反政府的な思想・発言を持つ人々を逮捕できる法律だとも言われている。諸外国にも同様の法律はあるが、基本的には秘密保持は公務員の責任に留め、一般国民は罰しないツワネ原則という国際基準に則ったものが通常であり、処罰対象を全国民にまで広げたところに今回の法案の特異性があると言われている。その上秘密の選定が各省庁に委ねられており、それをチェックする公正な機関が作られるかどうかは微妙である。結局、この法律の最大の目的は今日成立したNSC法案とセットで政府・官邸を国民の目から見えないところで権限強化を図ることにあると言えよう。現政権がこの法案成立を急いだのは、単に予算編成等の国会スケジュールが押し迫っているからだけではなく、恐らく年内のうちにアメリカと共有したい軍事機密があるのだと推察される。例えば、対中国・北朝鮮用のステルス戦闘機配備計画の前倒しとか・・・?  しかし、政権の思惑が仮に軍事的なもの中心であるにせよ、この法律は現実に運用する霞が関の権限・省益アップの側面の方が遥かに大きい可能性が高い。外務省官僚の中には日本の国益を損なうものである「思いやり予算」が減らないようアメリカ政府にアドバイスを送っている輩までいると聞く。この法律が施行されればこのような「非国民」である官僚の実態にもメスを入れることが出来なくなってしまうのである。  福島出身で弁護士という法律の専門家である女性大臣をこの法案の担当にしたのは、この法律の持つ狼の側面を柔らかな羊の皮で覆いたかったからではないのだろうか。安倍総理が昨日までこの法案審議の先頭に立たなかったのもタカ派の側面をあまり強く植えつけたくなかったからに相違ない。この法案は担当大臣も苦戦するほど複雑な(或いは曖昧な)文章で構成されているらしい。もっとも、ツワネ原則を読んでいないと吐露した彼女が、本当にこの法案を良しと思っているかどうかは知りようがない。大体、政府提出法案は全て官僚の作文によるものだが、今回の法案原文には実に36もの「その他」という表現が含まれている。たった一つの「等」の字のために震災復興法が沖縄の道路建設にも使われる程、法律の拡大解釈は官僚の得意技である。ましてや36の「その他」はこの法律をどこまで拡げることになるかは見当もつかない。ただ、強硬な法案反対論者が言うように、これが治安維持法の再来という意見には賛同しかねる。何故ならば、戦前と違って国民の手で政権交代を実現した現在、この法律で一般国民を逮捕しまくったり即戦争に加担したりすれば、政権など簡単に吹き飛んでしまう程度の民主主義は今の日本には存在するはずだからだ。もちろんこの法案は本来廃案になるべき悪法或いは欠陥法と思われるし、仮に成立したとしても民主党提出の対案法案なども同時に加えて、危険な方向に走ることがないようブレーキをかけるのが国民の代表者たる国会議員が構成する立法府の責任であるに違いない。だが、それを今の国会、参議院に臨むのはおそらく無理であろう。元々世論調査の賛成の少ない法案なので、マスコミ等が本格的に反対キャンペーンを張れば、民意が議員達の投票行動に影響を与え、もしかしたら継続審議くらいに持ち込むことができたかもしれないのだが、最大大手の新聞社(その主筆)が賛成なのだから、マスコミが団結することなど出来ようはずもないのだ。こうして現政権は着々と外堀を埋める作業を続け、来るべき憲法改変・集団的自衛権行使という本丸を目指すつもりなのだろう。そしてそんな政治家たちを陰で笑いながら、霞が関官僚は自分たちの地位を増々強固不動なものにしてゆくのだ。真の意味で国益を損なう存在「非国民」とは、いったい誰のことなのか、もう一度考えてみる必要がありそうな今日この頃である。

追記(お詫びと訂正)  前々回の独り言にて、女子バレーボールの木村沙織選手が移籍したトルコ・リーグをレベルが低いかのように書きましたのは、ひとえに小生の不勉強故の誤りであり、銅メダル国のエースでもレギュラーを取れないほどレベルの高いリーグに(たとえ1年だけになったとしても)移籍した「さおりん」の勇気と努力に改めて敬意を払いたいと思います。  この拙い文章を読んで頂いている方にもお詫び申し上げます。

2013年10月27日 (日)

玉ちゃんの独り言 第24回「千葉女子大生殺人事件高裁判決について考える」

          

 先日、2009年に松戸で千葉大の女子学生が殺害され、放火された事件の高裁判決に不服として検察弁護双方が上告したとのニュースがマスコミを賑わせていた。最大の争点は、計画的とは言えない被害者一人の殺人事件に対して死刑が適当かどうかという事だ。一審の裁判員裁判では、犯行の残虐性と絶え間なく犯罪を繰り返す被告の前科に重きをおいて、死刑判決が出された。原則的に一人の被害者の場合、極刑が下されないことを承知しているはずの判事も加わっての判決であり、素人の感情的な判断とは言い切れないものがあるのも事実だ。だが高裁はそれを却下して、無期懲役の判決を下した。最高裁が死刑基準を下げる(緩くする)ことに非常に慎重な立場をとっている以上、当然予想された判決と言って良いであろう。にもかかわらず、地方判事が最高裁の基準と異なる結論を支持したのは、死刑問題に対して一石を投じようとしたのかもしれないし、裁判員裁判制度の将来に危惧を感じてのことだったのかもしれない。いずれにせよ、この一審判決が素人裁判員たちが強力に推し進めた結果の産物であるのは、想像に難くない。彼らが判例より目の前の極悪人許し難しの感情に左右されたとしても、誰も批難することはできまい。それほど裁判員が死刑判決を言い渡すのは、精神的に物凄い重圧が掛かることだと言われている。こればかりは経験した人でないとわからない苦しみらしい。それでもやはり小生はこの死刑判決には賛同できない。それは小生が単に死刑廃止論者であるからだけではない。  上告後のインタビューで、被害者の両親が語っていたことが一般的日本人の殺人事件に対する懲罰感覚かもしれない。母親は、犯人の命より被害者である自分の娘の方が命の重さが軽いのかと言っていたが、可哀相ではあるがこれは間違っている。「命の重さ」は平等だと云う建前の問題では無い。もし犯人を死刑にすることで、「命の重さ」の均衡を図ろうとするのなら、被害者10人の殺人事件の被害者一人一人の「命の重さ」は、犯人の10分の1になってしまう。これは人の「命の重さ」で測るべき事案ではないのだ。また父親は「許される殺人があっていいのか」と話していたが、これも残念だが、論理矛盾でしかない。何故なら「許され(てい)る殺人」とは、まさに死刑(と戦争?)の事に他ならない。ちなみによく話題とされる正当防衛時の殺人は相手に対する殺意の存在が立証できないため、殺人ではなく傷害致死の範疇に入るべくものである。つまり個人では如何なる場合でも「許される殺人」は不可能なのだ。では国家は? 小生は如何なる場合でも「許される殺人」はあってはならないと確信している。何物にも代えがたい存在であった娘を殺された両親の悲嘆には同情するに余りあるが、テレビや新聞を通じてその発言が広く世に伝わる以上、たとえ揚げ足取りと言われても、その意見に否定的な見解を述べずにはいられない小生の器の小ささをご容赦願いたい。小生の死刑反対論についての詳細は「玉ちゃんの独り言 第5回」に述べたので、重複は避けるが、終身刑にも反対であることはここでも言っておきたい。なぜなら終身刑は死刑同様懲役ではないので、麻原彰晃のような働きもせず税金で優雅に暮らす囚人を増やすだけに他ならないからだ。無期を含む全ての懲役刑を見直して、被告の年齢に応じて八十歳くらいまでとか、百二十歳までくらいまででも、一生出てこれないだけの有期懲役・苦役を科すべきであろう。もちろん重大な犯罪を犯した者には仮出所は認めないのが条件だ。そうすれば刑務所で働いたお金を直接間接問わず被害者遺族のためにも使うことも可能になってくる。被害者遺族のすべてが犯人に猛省を求めているのは当然のことではあるが、彼ら遺族すべてが犯人の死を望んでいるわけではないのもまぎれもない事実である。

 今回のもう一つの問題点は裁判員裁判制度の存在意義についてであろう。この制度がスタートして4年になるが、今振り返ってみると周知期間の短さや裁判員そのものの役割を含め、すべてにおいて拙速だった感は否めない。今でも来年自分が裁判員候補者のリストに載るかもしれないと思っている人はどれほどいるだろう。まだまだ他人事の感が強いのだ。にもかかわらず、ある日突然他人の命を奪うほどの決断を迫られるかもしれないのだ。アメリカは一つの州を除き、陪審員達は、有罪か無罪の決定をするだけで刑を決めることはない。よって最近日本で時々起こる一審判決が検察求刑を上回るなどという珍事は起きようがない。来年裁判員に選ばれるかもしれないと言って法律や判例を勉強する人などほぼいないであろう。結局頭も心も準備不足のまま重大犯罪に取り組まねばならないのだ。これは普通の人々にとってあまりに過酷すぎる。裁判員の負担の軽減化と裁判員制度の充実的存続を図るのであれば、アメリカの陪審員制度のようにするか、扱う事件内容を変えるほうが良いのではないか。自供もあり有罪が確定的な犯罪でもそれにふさわしい刑を選択するのは素人には非常に難しいものである。ましてや物証がなく心証が真っ黒な被告を冷静かつ客観的に裁くことは、一般の人ではかなり難しいと思う。このような犯罪こそ「疑わしきは罰せず」の精神を基盤としているプロの判事に託した方がよかろう。一方、判事や検事の同類に近い存在の役人や政治家の汚職その他の金銭等が絡む犯罪は素人裁判員に厳しく断罪してもらうのがよいのではないか。どちらにしても、今回の高裁判決を含め裁判員裁判制度は、早くも最初の曲がり角に来ていると思わざるを得ない。少年法を含めた刑法の改正とともに裁判員制度も改めて見直す時期が来ていると思われるのだ。

 最後に亡くなった女子大生のご冥福とご両親他遺族関係者の方々に哀悼の意をささげて今回の独り言を終えたいと思う。

2013年9月29日 (日)

玉ちゃんの独り言 第23回「様々なスポーツの素朴な疑問」

                

 
 このところ政治ネタが続いたので、別ジャンルの話題で。もちろん政治の方も、アメリカがシリアに軍事介入をして反撃された場合、日本が集団的自衛権行使したらどうなるのか?等、書きたいことも色々あるのだが、皆が皆その手の話に興味を持ってくれているわけではないだろうと思われるので、今回はスポーツの多少時事ネタっぽいところを。
 まずは野球。WBCの敗戦の反省からの改革(常時日本代表チームをつくること等)が叫ばれていたはずなのだが、あれはどうなったのだろう? ボールの問題も根本はそこから始まったはずだ。もし来年またボールを変えてしまったら、バレンティン選手のホームラン記録は永久不滅の記録となってしまう。そこはどうする? 一方、田中マー君の記録は実にあっぱれで、どれだけ賞賛しても足りないほどである。早くも大リーグ移籍が噂されているが、今年のダルビッシュと岩隈の成績と前回WBCでの彼らの成績の相関関係から考えると、今年のWBCでのマー君の活躍程度では、まだ大リーグのボールには苦労することが予想される。最大の問題は、コミッショナーが誰で何をするかではなく、大の野球好きの国民が、日本球界に何を求め、どこに向かって行って欲しいかをはっきりとさせることである。そうすれば、ボールもコミッショナー問題も自ずと決まってゆくのではないだろうか。
 相撲&柔道。この二つは単に伝統的日本のお家芸(国技)というだけではなく、共通点が多い。小生の出身石川県は、相撲の盛んな所で、母校の高校には立派な土俵もあった。だが相撲部員が一人もいなかったので、大会にはいつも柔道部員が出ていた。大相撲にも柔道出身者は結構いるので、両協会の体質が似ているのも偶然ではないのかもしれない。吉田司家、嘉納家という宗家が今だに存在しているのも似ているし、後者は今も多大な権威を持っている。両協会とも数多の不祥事に蓋をして、忘れっぽい国民が問題にしなくなる日を待っているのかも。ただ前にも書いたが、柔道ナショナルチームの監督に、どうして指導歴の浅い現役引退間もない元選手ばかり続くのかは、とても疑問である。理事の言うことを聞く若手が選ばれるというのは本当なのだろうか? 大相撲に関しては、横綱より古参大関の方が年収が高い今の制度を変えない限り、引退後(親方になるとして)のことを考えた場合、横綱になりたいと本気で願う日本人力士は生まれまい。石川の星、遠藤君頑張ってね。
 サッカー。釜本時代の日本リーグを知るものとして、現日本国民の総サッカー評論家振りには驚くばかりで、隔世の感がある。あれほど評判の良かったげ現代表監督ザッケローニ氏さえも、少し結果が出ないともう叩かれ、果ては後任を言い出される始末である。日本代表を強くするにはどうするのがベストかは、もちろん決まった答えなど無いが、小生的には、代表チームの場合ある程度同じメンバーでコンビネーションを高めながら、個々のチームでスキルアップしていく方法が、ワールドカップに関してだけは成果を残せるのではないかと思う。ファンは代表戦だけでなく、もっとJリーグを応援すればいいのです。だからレイソルも国際試合だけではなく、Jリーグの方も頑張ってね。
 バレーボール。どうして大きい国際試合は日本で行われるのだろう? それほどスポンサーや放映権が付くのなら、どうして日本のエース木村「さおりん」はイタリアではなく日本より弱いトルコに移籍したのだろう? サッカーの代表選手で日本より弱い国に移籍する人はいない。かつて世界最高の選手の何人かは日本リーグに来ていたものだ(女子に限る)。たぶん問題はJリーグ同様Vリーグの人気低迷にあるのだろう。地上波でやらないものねえ。
 カーリング。どうして全日本選抜をつくらないのだろう?世界の強国も個別チームで戦っているのだろうか? かつて一度試したら駄目だったからというが、それはあんまり言い訳になっていませんよ、カーリング協会さん。
 レスリング。オリンピック継続おめでとう。ただ、冗談でも吉田沙保里選手を霊長類最強の女などと呼ぶのはやめて欲しい。確かにカレリン選手は、その称号に相応しかった。だが、彼女はたぶん伊調馨には勝てないだろう。それは全盛期の田村亮子が少し体重の重い北朝鮮選手に勝てなかったように。同じオリンピックチャンピオンと言っても、高橋尚子や北島康介とはピラミッドの大きさや底辺が土台から違うのである。別に、小生は吉田選手が嫌いなわけではない。むしろ好感を持っている。ただ、誰にしろ何にしろ持ち上げすぎる輩には要注意していたいだけなのである。
 最後に2020年東京オリンピック開催決定。これで築地市場移転をひっくり返すことは、ほほ不可能になった。喜んでいる人へ、おめでとう。でも七年は長い。何がどうなっているか、わかったものではない。七年後の日本が、とりあえず今より良くなってくれていれば、小生も「良かったね、オリンピックおめでとう」と言わせて頂きます。そうなることを願って、とりあえず今回はこの辺りまでで。このテーマはまたいつか。

追記(お詫びと訂正)
 前々回の独り言にて、女子バレーボールの木村沙織選手が移籍したトルコ・リーグをレベルが低いかのように書きましたのは、ひとえに小生の不勉強故の誤りであり、銅メダル国のエースでもレギュラーを取れないほどレベルの高いリーグに(たとえ1年だけになったとしても)移籍した「さおりん」の勇気と努力に改めて敬意を払いたいと思います。
 この拙い文章を読んで頂いている方にもお詫び申し上げます。


 
 
 

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2013年9月 1日 (日)

   玉ちゃんの独り言 第22回 「今一度オリンピック東京招致を考える」

 

 この独り言が届く数日後には、2020年のオリンピック開催地が決まる。当初下馬評No.1はイスタンブールであったが、トルコのデモ騒動の影響で、まさに三つ巴の様相を呈しているかのように見える。幸いにも(一部の日本人にとっては不幸にも)イスタンブールのデモ騒動は落ち着きを見せている模様だ。元々公園の再開発という極めてローカルな問題が切っ掛けであったので、7年後のオリンピックに影響を与えると思っていた方が、世界的には少数派だった可能性が高い。一時は他の大ニュースを押しのけ、毎日トップニュースとしてトルコのデモ騒動を報道してきた日本のマスコミは、デモが沈静化する過程を、意図的か否かはともかく、ほとんど報道しなかった。最初だけ必要以上に煽り立てて肝心の部分は尻切れトンボに終わるというのは我がマスコミの常ではあるが・・・ それはともかく、トルコの隣国シリア情勢は緊迫の一途を辿っており、この問題がトルコの政情に不安な影を落とさないとは言い切れないであろう。日本と違って洋の東西の多くの国々と国境を接しているトルコは、もしかすると日本とはもっとも正反対の環境の国と言えるのかもしれない。それゆえ個人的には、次々回のオリンピックにはイスタンブールが最も相応しく、また選ばれる可能性も高いと思っていたのであるが。
 東京開催に小生が反対の理由は第8回の「独り言」にも書いたが、大きく二つである。一つは、震災復興を掲げるのであれば場所は東京ではないはずということだ。例えば仙台。仙台ならば、小生も大賛成である。普通の日本人であれば、仙台が被災地最大の都市であると同時に、放射能の影響をほとんど受けていない安全な街であることは誰でも知っている。もし、仙台で開催できない理由が市の財政問題ではなく、福島原発に近いということであれば、7年後に収束している可能性はゼロと言っていいほど後始末の進まない原発事故の悪影響の可能性を鑑みた時、世界の地理から見て東京も五十歩百歩に過ぎないだろう。今現在のチェルノブイリの実情も知らずして福島の不安を煽りたてるような人々とフクシマを人も住めない「死の街」と思っている世界中の多くの人々にどれほどの違いがあろうか。日本人独特とも云える、見えない事象(新病や放射能等々)に対する極端な恐怖と警戒心は、時に海外から嘲笑の対象となることもあるのに、オリンピック参加の他の国々がもし選手団を派遣したくないと言ってきたら、それにどう答えることができるのだろう。日本(政府や国民)は、今仮にチェルノブイリの近くでオリンピックが開かれたなら、自信を持って選手団や観客を派遣すると誰が言い切れよう。
 今一つは、東京開催を推進していた前都知事の狙いとも云える築地市場移転とのリンク問題である。本来、築地市場の老朽化(もっとも、そこに働く人々や買い物客はそうは思っていないのであるが)とオリンピック招致はまったく別次元の問題である。にもかかわらず、そこに蠢く莫大な金と利権が目的であったかどうかは今となっては噂の域を出ないが、無理やりこの二つの巨大プロジェクトを結びつけたやり方には疑念と欺瞞を感じずにはいられない。とりわけ市場移転の候補地が食のホームタウンに相応しくない汚染された土壌であったことは、その候補地の選定そのものが一部の人々の利益誘導の結果であったことを示す何よりの証拠であった。それは時の都政与党の責任だけではなく、移転反対を掲げておきながら知事側に丸め込まれた民主党都連の不甲斐無さも見過ごせないものがある。今や築地市場は、外国人観光客に大人気の日本のひとつの顔である。市場を築地から移転するか否か、そして移転するとすればどこに移転するのが一番良いのかは、オリンピック開催と引き離してもう一度話し合われるべき大問題である。それを都議会だけで決めてよいのだろうか?
 たとえ東京開催に決まろうが決まるまいがこの二回も招致活動に費やされた百億円を超える都民の血税と多少(?)の国税は帰っては来ない。それなら景気回復のカンフル剤としても東京でやればいいじゃないかという声が最近増えているのが、支持率上昇の大きな要因と思われる。だが、事はそんなに単純なのであろうか? 東京開催が決まった後で都民だけではなく、国民が背負い負担するものは、多くの人々が思っているほど小さくて済むのであろうか。オリンピックの経済効果とは、その国のみならず世界中の人々が観客としてそこに集まるのが大前提である。この前提がもし何らかの理由で崩れることがあれば、オリンピック開催そのものも赤字に陥るのは避けられないのである。その時オリンピックは、見物でも、他人事でもなく、次なる試練として傷付いた日本を襲うかもしれないのだ。

2013年8月 4日 (日)

玉ちゃんの独り言 第21回「さらば民主党?」

            玉ちゃんの独り言 第21回「さらば民主党?」

民主党が迷走している。崩壊危機といっても過言ではないだろう。内部のゴタゴタや責任の擦り合い等を報道で見るに付け、情けないやら呆れるやらで、この党はもうお終いなのかなとさえ思えてくる。原因はもちろん、この二回の国政選挙の大敗に尽きるが、それは元々、政権与党時代の失策と余りの不甲斐無さに、国民の怒りと不満が爆発した所為に他ならない。長年やりたい放題をやり続け、大きなツケを民主党政権に回した自民党には寛大であったにもかかわらず、有権者は民主党には思いの外厳しかった。もちろんそれは、自業自得だと言ってしまえばそれまでなのだが、寄せ集め政党の限界と、長年に渡る政権交代の無い独裁に近い長期政権ゆえ他党に閣僚や政策責任者が育たなかった悲劇が生んだものというのが内実であろう。民主党はこのまま亡くなってしまうのだろうか? 亡くなる運命にあるのだろうか? それとも亡くなるべきなのであろうか?
 実を言うと、小生は選挙で何回か民主党に投票してきた。別に民主党支持者ではないし、好きでもない。だが、かつて政権交代の必要性から自民党に対抗できる政党が育つことを期待していた者として、他に選択肢がなかったというのは淋しいことではあったが、現実的対応としては仕方がなかったのだ。だから、前々回の民主党政権誕生の際の総選挙では民主党に投票する必要も感じなかったし(大勝は政党を駄目にする!)、逆に前回は1票を投じた。天邪鬼で世間と反対の投票行動をしたつもりはない。初めての民意による政権交代(細川政権は違うので、明治維新以来初とも云われている)が失敗に終わることは当然と言えば当然で、小生的には政権交代前から織り込み済みの結果に過ぎなかったのだが、国民の期待が過度に大きかった分だけ失望の度合いも桁違いに大きかったようだ。民主党政権の破綻の最大の原因はもちろん彼らそのものにあるが、その遠因を作り出したのは国民自身に他ならない。だからこそ前回の総選挙は民主党の生き残りが国のためだと信じられたのだが、この期に及んで見ると、それもかなり怪しくなってきてしまった。お蔭で今回の参議院選は、国政選挙では初めて選挙公報を真面目に読むことさえ苦痛なほど、モチベーションが上がらなかった。もちろんそれは小生だけではないことが、投票率の低さと、真の野党としての共産党の躍進という結果に表れている。
 二大政党制が日本に合っているか否かは議論の分かれるところで、小生にも結論の出せないことだが、その方向に舵を切ったことだけは間違いではなかったと断言できる。問題は、民主党という党が、右は自民党急進右派並み、左は旧社会党左派まで入り混じっている「政党」と呼んでいいかどうかさえ分からぬような党であったことだ。ただただ政権交代の大義だけを合言葉に集まった野合集団であったと言われても仕方ないところだったのだが、そんな集団が分裂せずに持ち堪えられたのは、自民党の凋落と腐敗ぶりが政権交代の可能性を目前に感じさせられたこととトロイカ体制の成功にあった。つまりオーナー的存在で政界一の資金力の鳩山氏(自民党のハト派田中派出身)、現役№1の政治腕力の小沢氏(言うまでもなく田中角栄直系)、市民運動出身の左派期待の星・管氏(旧社民連出身。そして厚相として官僚に立ち向かった実績あり)の三大派閥の長が手を結び、タカ派筆頭の清和会(旧福田派)が牛耳っていた当時の自民党と対峙するという構図は、この三人の個人的資質はさておき、政策的にも二大政党になりうる可能性を秘めていたのだ。それは、脱原発、TPP、憲法改正等のスタンスからしても自民党との対立軸は充分描けたはずである。だが、実質的には三人とも現民主党から切られてしまった。改めた言うが、個人的問題はさておきである。とにかく右派中心となってしまった民主党に自民党と戦える弾があろうはずがない。今考えてみれば、「民主党」という党名そのものが「自由民主党」の分裂勢力に過ぎないことを明示していたのかもしれない。となれば、ここで民主党が消えてゆくのも始めから運命だったのかもしれない。政界再編過渡期の次へのステップとしての役割ならば、ある程度果たせたのかもしれないと。
 幸か不幸か、現在日本と安倍政権は、憲法改正とTPPという二大宿題を抱えている。もし、総ての政治家一人一人にこの問題に対するスタンスを明らかにさせることができれば、政策集団は、4つに分かれるはずである。もちろん税その他大きな政治的課題は、幾つもあるが、踏み絵として相応しいには、この二つではないだろうか。これは必ずしも実現不可能な絵空事ではない。国民一人一人が民主党の失敗を他人事ではなく省みることが出来れば、世論を形成しマスコミを動かし政界再編を進めることが出来るはずなのだ。何故ならば、それが国民主権であり、本来の政治の姿に他ならないからである。そしてそれこそが、我々が支払った民主党政権の失敗という重いツケを我々自身で返すことになるのである。
 

2013年6月30日 (日)

玉ちゃんの独り言 第20回「ブログとバッシング」

    偶然ではあるが、今月よりこの「独り言」がインターネット上に載ることとなった。不特定多数の方に読まれる可能性が出てきたことで、どこかからバッシングを受ける危険性も同時に発生することとなるのは仕方があるまい。ブログやツィートの類は気軽に書けるのが魅力ではあるが、よく推敲されていない感情的な本音やユーモアのつもりで呟いた表現等が、思わぬ大きな物議を醸すことも覚悟せねばならないのである。大阪市長の「慰安婦」発言は、彼の政治家生命の危機をも招くことになってしまった。もっとも、首長であると同時に政党の代表でもある人物故、発言により慎重になってもらわなければならないのは当然と言えよう。
 先日、岩手県議の某氏が亡くなった。自殺らしい。一般に自殺の原因というのは大変デリケートなもので、本当の理由は本人にしか分からぬものではあるが、報道通りであれば、自身のブログでの県立病院に対するきついコメントが逆襲され、マスコミにも大きく報道されたことによる心労が原因であるようだ。死者を鞭打つわけではないが(この表現は本当によく使われるが、これこそが、人を誹謗攻撃することへの、自己弁護と責任逃避に他ならない)、切っ掛けとなったブログの表現は相当酷いものであった。彼はこれを書いた時、自分がどれほど酷く他人を傷付けていたかほとんど気付かなかった、或いは確信犯的に中傷したにせよ、それが自分に跳ね返って初めて事の深刻さに気付いたに違いない。その彼が亡くなっても、まだ彼を叩き続ける投稿等を読むにつけ、バッシングする側の匿名故の過激さと悪意の無自覚さこそが、より根の深い問題であることに気付くのである。
 飲食店をやっていることで、「食べログ」等の飲食店に対する厳しいコメントも読む機会が多い小生だが、自分の書いたコメントの影響力がわかっていないブロガーも少なくないように見受けられる。もちろん駄目なものを駄目と指摘することの意義を否定はしない。小生も知り合いの店には厳しいことも言う。それで、良くなって欲しいと思うからだ。だがそれは(不特定)多数の知る場である必要はまったくない。中でも、他者を強烈に貶す内容の文章中に、「(笑)」の文字が入っているのを見ると、読んでいて悲しい気持ちにさせられる。どこの馬の骨だかわからない人が書いたたった一つのバッシングコメントが、店の存亡に関わるほどの打撃を与え、罪もない人たちから生活の糧を奪ってしまうことさえある。と言えば、あなたは「そんな大げさな」と答えるかもしれない。だが、その感覚こそが、悪意の無自覚であり、匿名性と云う大きな盾の陰に隠れて、他人に言葉の暴力を振るう原動力に他ならない。亡くなった県議やバッシング好きなブロガーに共通するのは、自分の被害者意識の大きさと相手への思いやりの欠如であろう。某有名イタリアンシェフの失言騒ぎも、少し思いやりが不足した結果のように思われた。
 「思いやり」とは、云うまでもなく「他人の気持ちになって考えること」であり、サービス業の基本中の基本である。さらに言えば、孔子とイエス・キリストが述べている倫理の根本真理に他ならない。政府自民党は、道徳教育に力を注ぐ方針らしいが、授業道徳の点数化より、家庭や幼児教育の場での、思いやり教育の徹底こそが、これから先もさらに増え続けるであろう(言葉も含む)暴力による悲劇を未然に防ぐ唯一最大の手段であると思われるのだ。
 「思いやり」いつも持ってますか? 自戒も含めて・・・

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