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2013年10月

2013年10月27日 (日)

玉ちゃんの独り言 第24回「千葉女子大生殺人事件高裁判決について考える」

          

 先日、2009年に松戸で千葉大の女子学生が殺害され、放火された事件の高裁判決に不服として検察弁護双方が上告したとのニュースがマスコミを賑わせていた。最大の争点は、計画的とは言えない被害者一人の殺人事件に対して死刑が適当かどうかという事だ。一審の裁判員裁判では、犯行の残虐性と絶え間なく犯罪を繰り返す被告の前科に重きをおいて、死刑判決が出された。原則的に一人の被害者の場合、極刑が下されないことを承知しているはずの判事も加わっての判決であり、素人の感情的な判断とは言い切れないものがあるのも事実だ。だが高裁はそれを却下して、無期懲役の判決を下した。最高裁が死刑基準を下げる(緩くする)ことに非常に慎重な立場をとっている以上、当然予想された判決と言って良いであろう。にもかかわらず、地方判事が最高裁の基準と異なる結論を支持したのは、死刑問題に対して一石を投じようとしたのかもしれないし、裁判員裁判制度の将来に危惧を感じてのことだったのかもしれない。いずれにせよ、この一審判決が素人裁判員たちが強力に推し進めた結果の産物であるのは、想像に難くない。彼らが判例より目の前の極悪人許し難しの感情に左右されたとしても、誰も批難することはできまい。それほど裁判員が死刑判決を言い渡すのは、精神的に物凄い重圧が掛かることだと言われている。こればかりは経験した人でないとわからない苦しみらしい。それでもやはり小生はこの死刑判決には賛同できない。それは小生が単に死刑廃止論者であるからだけではない。  上告後のインタビューで、被害者の両親が語っていたことが一般的日本人の殺人事件に対する懲罰感覚かもしれない。母親は、犯人の命より被害者である自分の娘の方が命の重さが軽いのかと言っていたが、可哀相ではあるがこれは間違っている。「命の重さ」は平等だと云う建前の問題では無い。もし犯人を死刑にすることで、「命の重さ」の均衡を図ろうとするのなら、被害者10人の殺人事件の被害者一人一人の「命の重さ」は、犯人の10分の1になってしまう。これは人の「命の重さ」で測るべき事案ではないのだ。また父親は「許される殺人があっていいのか」と話していたが、これも残念だが、論理矛盾でしかない。何故なら「許され(てい)る殺人」とは、まさに死刑(と戦争?)の事に他ならない。ちなみによく話題とされる正当防衛時の殺人は相手に対する殺意の存在が立証できないため、殺人ではなく傷害致死の範疇に入るべくものである。つまり個人では如何なる場合でも「許される殺人」は不可能なのだ。では国家は? 小生は如何なる場合でも「許される殺人」はあってはならないと確信している。何物にも代えがたい存在であった娘を殺された両親の悲嘆には同情するに余りあるが、テレビや新聞を通じてその発言が広く世に伝わる以上、たとえ揚げ足取りと言われても、その意見に否定的な見解を述べずにはいられない小生の器の小ささをご容赦願いたい。小生の死刑反対論についての詳細は「玉ちゃんの独り言 第5回」に述べたので、重複は避けるが、終身刑にも反対であることはここでも言っておきたい。なぜなら終身刑は死刑同様懲役ではないので、麻原彰晃のような働きもせず税金で優雅に暮らす囚人を増やすだけに他ならないからだ。無期を含む全ての懲役刑を見直して、被告の年齢に応じて八十歳くらいまでとか、百二十歳までくらいまででも、一生出てこれないだけの有期懲役・苦役を科すべきであろう。もちろん重大な犯罪を犯した者には仮出所は認めないのが条件だ。そうすれば刑務所で働いたお金を直接間接問わず被害者遺族のためにも使うことも可能になってくる。被害者遺族のすべてが犯人に猛省を求めているのは当然のことではあるが、彼ら遺族すべてが犯人の死を望んでいるわけではないのもまぎれもない事実である。

 今回のもう一つの問題点は裁判員裁判制度の存在意義についてであろう。この制度がスタートして4年になるが、今振り返ってみると周知期間の短さや裁判員そのものの役割を含め、すべてにおいて拙速だった感は否めない。今でも来年自分が裁判員候補者のリストに載るかもしれないと思っている人はどれほどいるだろう。まだまだ他人事の感が強いのだ。にもかかわらず、ある日突然他人の命を奪うほどの決断を迫られるかもしれないのだ。アメリカは一つの州を除き、陪審員達は、有罪か無罪の決定をするだけで刑を決めることはない。よって最近日本で時々起こる一審判決が検察求刑を上回るなどという珍事は起きようがない。来年裁判員に選ばれるかもしれないと言って法律や判例を勉強する人などほぼいないであろう。結局頭も心も準備不足のまま重大犯罪に取り組まねばならないのだ。これは普通の人々にとってあまりに過酷すぎる。裁判員の負担の軽減化と裁判員制度の充実的存続を図るのであれば、アメリカの陪審員制度のようにするか、扱う事件内容を変えるほうが良いのではないか。自供もあり有罪が確定的な犯罪でもそれにふさわしい刑を選択するのは素人には非常に難しいものである。ましてや物証がなく心証が真っ黒な被告を冷静かつ客観的に裁くことは、一般の人ではかなり難しいと思う。このような犯罪こそ「疑わしきは罰せず」の精神を基盤としているプロの判事に託した方がよかろう。一方、判事や検事の同類に近い存在の役人や政治家の汚職その他の金銭等が絡む犯罪は素人裁判員に厳しく断罪してもらうのがよいのではないか。どちらにしても、今回の高裁判決を含め裁判員裁判制度は、早くも最初の曲がり角に来ていると思わざるを得ない。少年法を含めた刑法の改正とともに裁判員制度も改めて見直す時期が来ていると思われるのだ。

 最後に亡くなった女子大生のご冥福とご両親他遺族関係者の方々に哀悼の意をささげて今回の独り言を終えたいと思う。

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