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2013年6月

2013年6月30日 (日)

玉ちゃんの独り言 第20回「ブログとバッシング」

    偶然ではあるが、今月よりこの「独り言」がインターネット上に載ることとなった。不特定多数の方に読まれる可能性が出てきたことで、どこかからバッシングを受ける危険性も同時に発生することとなるのは仕方があるまい。ブログやツィートの類は気軽に書けるのが魅力ではあるが、よく推敲されていない感情的な本音やユーモアのつもりで呟いた表現等が、思わぬ大きな物議を醸すことも覚悟せねばならないのである。大阪市長の「慰安婦」発言は、彼の政治家生命の危機をも招くことになってしまった。もっとも、首長であると同時に政党の代表でもある人物故、発言により慎重になってもらわなければならないのは当然と言えよう。
 先日、岩手県議の某氏が亡くなった。自殺らしい。一般に自殺の原因というのは大変デリケートなもので、本当の理由は本人にしか分からぬものではあるが、報道通りであれば、自身のブログでの県立病院に対するきついコメントが逆襲され、マスコミにも大きく報道されたことによる心労が原因であるようだ。死者を鞭打つわけではないが(この表現は本当によく使われるが、これこそが、人を誹謗攻撃することへの、自己弁護と責任逃避に他ならない)、切っ掛けとなったブログの表現は相当酷いものであった。彼はこれを書いた時、自分がどれほど酷く他人を傷付けていたかほとんど気付かなかった、或いは確信犯的に中傷したにせよ、それが自分に跳ね返って初めて事の深刻さに気付いたに違いない。その彼が亡くなっても、まだ彼を叩き続ける投稿等を読むにつけ、バッシングする側の匿名故の過激さと悪意の無自覚さこそが、より根の深い問題であることに気付くのである。
 飲食店をやっていることで、「食べログ」等の飲食店に対する厳しいコメントも読む機会が多い小生だが、自分の書いたコメントの影響力がわかっていないブロガーも少なくないように見受けられる。もちろん駄目なものを駄目と指摘することの意義を否定はしない。小生も知り合いの店には厳しいことも言う。それで、良くなって欲しいと思うからだ。だがそれは(不特定)多数の知る場である必要はまったくない。中でも、他者を強烈に貶す内容の文章中に、「(笑)」の文字が入っているのを見ると、読んでいて悲しい気持ちにさせられる。どこの馬の骨だかわからない人が書いたたった一つのバッシングコメントが、店の存亡に関わるほどの打撃を与え、罪もない人たちから生活の糧を奪ってしまうことさえある。と言えば、あなたは「そんな大げさな」と答えるかもしれない。だが、その感覚こそが、悪意の無自覚であり、匿名性と云う大きな盾の陰に隠れて、他人に言葉の暴力を振るう原動力に他ならない。亡くなった県議やバッシング好きなブロガーに共通するのは、自分の被害者意識の大きさと相手への思いやりの欠如であろう。某有名イタリアンシェフの失言騒ぎも、少し思いやりが不足した結果のように思われた。
 「思いやり」とは、云うまでもなく「他人の気持ちになって考えること」であり、サービス業の基本中の基本である。さらに言えば、孔子とイエス・キリストが述べている倫理の根本真理に他ならない。政府自民党は、道徳教育に力を注ぐ方針らしいが、授業道徳の点数化より、家庭や幼児教育の場での、思いやり教育の徹底こそが、これから先もさらに増え続けるであろう(言葉も含む)暴力による悲劇を未然に防ぐ唯一最大の手段であると思われるのだ。
 「思いやり」いつも持ってますか? 自戒も含めて・・・

2013年6月17日 (月)

玉ちゃんの独り言 第19回「憲法改正? 改悪?」

                   
 
 ゴールデンウィーク初日の日曜日、我らが日本一の大新聞に大きな特集記事が掲載された。北朝鮮有事の際のシュミレーションである。確かにこの頃は北朝鮮の挑発的言動が騒がしい時期ではあったが、それにしてもこのシュミレーション記事は酷かった。小説のような創作ならば、まあ読んで読めなくもないが、新聞記事としては論外な代物だっだ。誰の意見で、どんな専門家の検証の元で創られたものかは知らないが、かの国が御自慢のミサイルを使うこともなく、空爆さえせずに、いきなり白兵戦を仕掛けてくるだなんて、しかも国境付近でもなく、わざわざ半島南岸へ回っての上陸作戦とは・・・ 自国の兵隊に壊滅しろと云っているが如き無謀、かつ成功しても何も得られるもののない軍事行動である。このような開戦の仕方を起こす確率が0.1%でもありうると天下の大新聞は本気で思っているのだろうか? 軍事専門家でなくても、このシュミレーションの前提には首を傾げざるをえまい。では何故、このようなあり得ない攻撃を北がしてくると設定したのだろう? 答えははっきりしている。日本と韓国の地理的狭間に敵である北朝鮮軍にいてもらわないと、その後のシュミレーション、つまりに在韓邦人救出が困難になるという仮定が作れなくなるからに他ならない。この危機的状況を強引に作り出すことにより、現憲法下における自衛隊の無力さと集団的自衛権の必要性をアピールするのが、この特集記事の目的だからである。賢明なる諸兄がこんな有りえない仮定に引っ掛かるとは思えないが、なにぶんクオリティ・ペーパーを自認する大新聞の記事である、影響される人も少なくはないと考えられる。同時にこの日の社説でも改憲の必要性を全面的に説いていたが、改憲の必要性と9条の改変は本来個別に語られるべき問題ではなかろうか。
 現在、高支持率を誇る安倍政権は憲法96条の「改正」を強く推し進めている。だが、この96条の改変については急進的改憲派の新右翼や頑固な国粋主義者の中にも、反対の声が少なくない。自民党の主張する96条の改正は、ただ改憲のハードルを下げることだけであるからだ。本来憲法とは、非力な国民が強大な国家権力や政治体制を縛るたった一つの武器に他ならない。いくらその時の政権に人気があるからと云って、改憲のハードルを政治家たちに下げさせるのは立憲主義・国民主権の自殺行為ともいうべき愚挙である。その上、大多数の国民の記憶にはあまり残ってはいないであろうが、前の第一次安倍政権で国民投票のハードルを下げる法案が既に可決しているのである(18歳以上と、あえて現民法下の未成年まで投票権を与えることにしたのは、広く国民の声を吸い上げるためなどではなく、思想的に一番厄介かつ人口も多い団塊の世代の比率を下げ、同時に非常に右傾化・国粋主義化していると云われている若者世代の賛成票を狙ってのことに相違ない)。この法案では、分母に当たるものが全有権者数なのか、投票総数なのかを明確にしていないため、場合によっては、国民の5人に1人しか賛成しなくても、新憲法が成立してしまう可能性があると言われている。これで国会のハードルも下げてしまえば、憲法は政権が変わる度にコロコロ変えられる法律以下の存在になってしまうのである。国民投票という高いハードルがあるから、国会議員票は過半数の方が民意だなどと云うのは、詭弁以外の何物でもない。もしかすると、一旦改憲が決まって9条等を思いのままに改変した後で、96条をもう一度高いハードルの条文に変えるという超裏ワザの可能性も無いとは言い切れない。かつての「独り言」でも述べたように、別に小生は改憲に反対なわけではない。ただ、憲法は改正すべきものであって、決して改悪してはならないものなのである。9条をどう変えるかは人によって意見は様々で、今ここで簡単に結論を述べられるものではないが、少なくとも96条に関しては、間違いなく改悪であると言わざるを得ない。96条を変えなくても、国民の全体的なムードは改憲に傾いているように思われる。ただ、この古くなったと言われる現憲法が対アジア的には大いなる効力を発揮しているのも否定できない現実である。平和憲法の理念を変えることは、靖国公式参拝や従軍慰安婦問題、教科書検定などの歴史認識問題の比ではなく中国や韓国との軋轢を生むことは間違いない。領土問題への悪影響も否定できない。アメリカ政府高官でさえ懸念を表明している人もいるくらいだ。もちろん自衛隊の憲法基盤を作ることは必要と思われるので、近い将来9条の改正に踏み込む可能性は高いと言えよう。そして9条以上に古さゆえ現代日本にそぐわなくなってきた条項の見直しもすべきだ。ただ高支持率の政権だからこそ尚更、96条先行のような姑息な手段は選ばずに、正々堂々と国民に必要性を説いて進めて欲しいと思うのだ。その方が、あの世のお祖父ちゃんも喜ぶに違いない。だが、改憲より先にすべき多くの諸問題解決に手間取ると、自分の手では改憲出来なくなってしまうという彼の不安が焦りとなって、このような作戦に繋がっているのかもしれない。最も時間を掛けるべきことを、最も手短に済ませようとしているのは、言語道断と言う他ない。そしてそれを煽るため、国民に間違った危機感を植え付けようとする大新聞やマスコミはもっと要注意と言わざるを得ない。まず日本国憲法を知るところから始めましょうか。

                                        2013.05.29記

       玉ちゃんの独り言 第18回「ボストン爆弾爆破事件で考えるアメリカと日本」

 

 最近最大のニュースと言えば、ボストンマラソンの爆弾爆破事件に違いない。事件そのものは、これからの日本でも起こりかねない共通性を持つが、その捜査経過と結果は、極めてアメリカ的と云うか、日本では考えられない展開であった。この文章を書いている今日現在の時点では、犯人兄弟の動機はまだ完全には解明されていないが、少なくとも兄弟のみの犯行であり、イスラム教徒であってもイスラム過激派のテロ組織との関係はないようであると報道されている。もしその通りであれば、これはアメリカで時々起る「負け組(少なくとも本人はそう感じている)」留学生や移民による純アメリカ国民(?)への怒りから来る暴挙の類と考えられる。日本でも先日起きた、広島のカキ工場の殺傷事件がそれに当たる。不特定多数を狙う通り魔的殺人は、土浦や秋葉原の事件でも同様であるが、ここには、日本人の薬物中毒や社会への不適合者が起こす犯罪にはない国際的背景が確実に存在する。ボストンの犯人兄弟のことはまだ詳しく解ってはいないが、広島の犯人である中国人留学生の場合で言えば、莫大な借金をしてまで来日したにもかかわらず、本人がいくら努力しても日本人の何分の一も稼げないのは(確か時給20円!)、現在国が行っている外国人技能研修制度の明らかなるシステム欠陥が大きな原因であることは間違いなく、今のままでは第2第3の事件がいつ起きても不思議ではない。今までのアメリカの事件は大抵銃乱射だったので、日本では真似できなかったのだが、爆弾であれば今のネット社会の日本なら素人でも作製可能になっている(もっとも先日聞いたラジオ番組によれば、TPPに参加すると、アメリカ国内で防犯のため全店員が銃を携帯している宝石店が日本に進出した場合、日本の銃刀法よりTPPが優先されるため、日本国内での銃携帯を阻止することはできないとのことなので、これからはライフル銃乱射もありかも・・・)。鬱憤が爆発しかけている留学生たちや被害妄想に陥っている若者などには、今回のボストンの事件が「いい参考」になった可能性は否定できない。
 今回のボストンの事件の結末に関しては、日本人として幾つかの違和感を感じずにはいられなかった。犯人の(正確には、銃撃事件の現行犯ではあるが、爆弾事件に関しては、まだ容疑者に過ぎない)弟が逮捕されて事件が一応解決した日、地元の警察署長が「我々は勝利した」と誇らしげにスピーチした際、小生は思わず「何に?」と突っ込みたくなった。国際的テロではない事を一番承知しているはずの捜査当事者が、誰に勝ったと言っているのであろう? それとも、住宅街を200発以上もの銃弾で滅茶滅茶にしておいて、容疑者を殺したり重体状態で拘束することをアメリカの警察は勝利と呼ぶのだろうか。同様に「USA!」を大連呼してパレードしている群衆たちも、日本人の小生から見ると、異様な光景に見えて仕方なかった。アメリカ国歌が物語るように(独り言 第10回参照)、国民性の違いと言ってしまえばそれまでだが、日本はこのような国とTPPを通して法律の土俵を同じくしようとしているのである。もう一つ、どのマスコミもあまり触れていなかった点が、犯人である弟が未成年であったにも関わらず、公開指名手配をすることに誰一人として異論を挟まなかった事である。アメリカの成人年齢は21歳であるから、日本で考えれば18歳の未成年の本名と顔写真が公開されたことになる。しかもその時点では、彼はまだ容疑者であって犯罪者と確定したわけではないのだ。犯罪大国アメリカでは、12~15歳の少年でも顔写真を公開して指名手配できるらしい。日本とは大違いである。だがもし彼が本当の国際テロ犯で、指名手配をしなかったら、第2のテロを引き起こす存在であった場合、現在の日本の少年法は、アメリカのような事件の早期解決を阻むばかりではなく、更なるテロの温床を広げかねない危険性を有しているのが現状と言えよう。総理大臣が「人ひとりの命は地球より重い」と語って、赤軍ハイジャック犯を逃亡させ、国際テロ犯を増やした苦渋の過去が我が国にはある。あの決断が正しかったのかどうかは今もって小生にもわからない。ただ、国際的に大いなる批難を甘受せねばならなかった歴史が今の日本をつくっているのも事実なのだ。光市母子殺害事件等の死刑判決を見るまでもなく、全体的に現在のハイティーン犯罪の判決は重罰化の傾向がより強くなっている。裁判員裁判においては、さらにその傾向が顕著である。これは、一般日本国民の犯罪に対する感覚が、あのハイジャック事件の当時より明らかに厳しくなっている何よりの証拠である。それが良いことなのかどうかは、また別の問題ではあるが、現在の少年法の矛盾や不備を指摘する声は日々高まっており、改正の方向へ進んでいるのは間違いない。が、明らかな欠陥法と国会議員たちも認める外国人技能研修制度でさえ、まだ改正出来ていないのに、少年法のような重要な法律が、たとえそれが近々の大事件に繋がっているとしても、恐らく改正にはまだ何年もかかることであろう。憲法96条の改変をする前に、変えなければいけない法律はまだまだたくさんあるのだ。

                                        2013.04.30記

玉ちゃんの独り言  第17回「TPPはわからない」

 この独り言で「TPP」を取り上げようかと思ったのは、半年くらい前のことだった。結局書くに至らなかったのは、当時の小生にはTPP自体がよく解らなかったからである。では、現在どうかというと、今もって分からないというのが偽らざる本音である。国益以外の(自身の地盤や関連する業界、所属する政党や団体などの)利益を代表せざるを得ない政治家などや特定のポリシーを隠し持った大新聞を始めとするマスコミなどに、そもそもこの問題の本質的な損得勘定は出来るとは思えない。比較的信頼のおけそうな学者や評論家にしても、この問題に関しては賛否が真っ二つに分かれている。おそらくその原因の一つは、TPPの交渉内容が参加国以外には明かされない事であろう。あと一つ大きいのは、あまりに問題が多岐にわたるため、このTPPというものをどう捉えるか ということ自体が人によって大きく違っているのではないかということだ。そこには、TPPに参加するか否かという事は日本の国際化を取るか、日本のアイデンティティ(日本が日本である独自性)により重きを置くかという日本人一人一人が思い描く将来の日本像の違いが、その根本にあると思われる。敢えて分かりやすい例で極論するとすれば、TPPに参加するということを、日本人にもっと英語を喋ろうという風に喩えると良いのかもしれない。日本人が今より上手に英語を話せるようになることに異論を挟む人はほとんどいないはずだ。だがそれが、日常生活も常に英語をと法律で定められるとすれば、それはちょっとやり過ぎと大部分の人たちは反対するに違いない。TPP参加の最大の関門となる点は、単なる貿易・関税や農業などのハード的側面ではなく、国際ルールに則った法改正や外国企業とその労働者の参入による文化的摩擦などのソフト的側面であると小生は予想している。殊に「ラチェット規定」と「ISE条項」がボディーブローのように後から効いてくる恐れが強い。もちろん貿易黒字は日本経済の生命線であり、仮にTPPに不参加だとしても、農業改革は必要不可欠であろう。だが、こと農産分野に絞ってみても、食糧自給率の低下を招く農地の減少に加え、風評に極めて弱い日本人にBSE危険肉や発がん性物質を含む食品を排除出来なくなることが果たして耐えられるのであろうか。仮に「米」を聖域に出来たとして(TPPの基本主旨から判断すれば、かなり難しいが、それ以外を例外品目にするのはほぼ不可能であると思われる)、その成果を持って参加の是非を政権が決断するのだろうか? これは外務省や推進側の政治家が決めていい類の問題ではない。国会議決でも足りない。本来なら、交渉過程を国民に明らかにした上で、このテーマで1回国民投票か総選挙すべき大問題であるはずなのだ。この問題が郵政民営化と根本的に異なるのは、ラチェット規定が一度決めたことのやり直しを決して許さなくさせているところだ。国はもちろん、地方自治体或いは公立学校や公的施設等が、生命(食、医療その他)の安全と地産地消を唱えただけで、国際裁判になり、しかも必ず負ける(!)システムを含むISD条項があることを考えれば、反対派の方に分があるようにも思えてくる。反対派の中にはより規制の緩やかな「FTA」「EPA」で充分との説を採る人が少なくないが、事はそんなに単純ではない。TPPが機能し始めれば、アメリカは日本との2か国間FTAには乗ってくるまい。その時アメリカとのFTAを既に決めている(輸出ライバルの)韓国に勝てる材料は益々減る一方だ。一旦TPP交渉に参加した以上、カナダやオーストラリア他ともFTAは難しくなるに違いない。かつて小泉総理時代に「痛みを伴う改革」という表現が使われたが、これはまさに身を切る覚悟を要するという意味では、消費税増税を遥かに超える国民的苦渋の決断であり、島国でほぼ単一民族(この表現が適切ではないことは承知しているが、ここでは便宜上適当なので)という「ぬるま湯」に浸かっていた我が国にとっては、幕末の開国に匹敵すると言ってもいいほどの変革に直面しているのだ。返す返すも残念なのは、交渉参加が余りにも遅すぎたことだ。日本の様々な主張を通すには、時間がなさすぎる。かといって、不参加の先にあるのは、日本経済そして国際的国家としての衰退の危機に他ならない。この踏み絵は、踏んでも地獄踏まなくても地獄なのかもしれない。ではどうする? 結論は最初に述べている、「わからない」。ただ声を大にしても言いたいのは、江戸時代ではない、国民主権の民主主義国家である以上、自分の運命を左右する問題は自分で決めるべきであるということだ。偏った主張を鵜呑みにして今の政治家たちに下駄を預けることだけは避けたい。この問題は国民が決めるのだという雰囲気づくりが不可欠であり、同時に国民一人一人もTPPに関する学習を怠らないように努めてゆくのが義務であると。

                                        2013.03.26記

玉ちゃんの独り言 第16回「いじめ、体罰、そしてテロ」

          
 
 今回のタイトルで、最近のニュースが語り尽くせるのではないかと思われるほど、社会面ニュースをこの手の話題が席巻している。アルジェリアで亡くなられた方とその遺族には、心より哀悼の意を捧げたい。が、自殺した二人の少年とその家族には同情はしつつも、全面的な被害者かと言えば、疑問を感じずにはいられない。たぶん、人間には自分で死を選ぶ権利が存在するのだとは思う。ただ、それはそれしか選択肢がないという究極の結論であるべきで、人生経験のみならず、知恵も知識も乏しい子供には本来自分で判断できない選択であるはずなのだ。それを目の前の事象が人生のすべてにしか見えない盲目同然の子供に死を選ばせた責任は、家族親族、教師はもちろん友人も含めた周囲の人間全体が負うべきものであると思われる。厳しい言い方だが、その子たちは殺されたわけではないからだ。ただこの問題の背景には、近年特に増している社会全体の「命の軽さ」とも言うべき風潮、特に子供に何よりも重いはずの「命の尊さ」を親も教師も教えきれていない現状と、マスコミ報道や漫画・アニメ、とりわけゲームなどの悪影響が考えられる。社会全体が未来を担うべき子供たちを軽々しく死に追いやっているといっても過言ではあるまい。一部の生徒や教師を加害者として断罪しても、根本的な解決には程遠いと言わざるをえまい。
 幸いなことに、小生の学生時代は、今で云う「いじめ」とは無縁であった。母校の金沢市立の中学校には、当時「朝鮮部落」と呼ばれた、在日の貧しい人々が住む被差別地域があったのだが、たまに軽い別称はあったものの(それでも本人にとっては深刻であったかもしれない)、遊びの輪から締め出したりすることはなかった。ましてや、日本人同士では皆無と云えた。地域差はあるだろうが、いい時代だったのだ。村八分は過去で、現代よりは牧歌的時代であった。昆虫採集や魚獲りで命を学んでもいたし、三世代家族が普通だったので、自分の祖父母のみならず近所のお年寄りとの交流(怒られもした)とその死に直面する機会も今の子供の比ではなかった。「いじめ」の根底にあるのは、コミュニティ内における優位性の確保であると思われる。元々の上下関係があれば、それは、体罰やシゴキ等、今で云う「パワハラ」の形態になるもので、上級生による下級生いじめは、今問題となっている「いじめ」とは異質なものである。平等が故、平等を嫌う人間の悲しい性、原罪とも云うべき「人より良くありたい」との本質的願望に根差しているものに違いない。もちろんこの性が、人類の発展や個人の成功、幸せの実現の原動力であることも疑いのない事実だ。したがって「いじめ」を根絶するのは、相当難しい。だが、昔から必ず存在するものではない以上、質的量的に少なくすることは可能なはずだ。子供たちに心の平安と優位願望や競争意識の心を違う方向へ上手く転嫁ができれば、深刻なケースは防げるに違いない。それには、社会全体の意識改革が必須なのは言うまでもない。
 体罰の歴史は古い。我が国の場合、長きに亘った封建制と武士道社会が体罰の正当化を日本人の潜在意識の奥底に植え込んできたと思われる。中でも、格闘技系スポーツでは日常化しており、竹刀で叩かれたことの無い選手はほとんどいないのではないか。「道」の名が付くものは特にその傾向が強い。相撲や野球にまで「道」を付けたがるのは、日本人の悪しき精神論であり、精神を非科学的な肉体への負荷で鍛えようなどとする前時代的な稽古が、効率の悪いトレーニング方法であることは、既に証明されているはずなのに、全く無くなる気配がない。小生の学生時代にも体罰は当然の如く存在したし、料理界でも普通にあった。一人の生徒を3、40発も殴るというのは、完璧な傷害事件なので、行政処分ではなく刑事罰を与えるのが当然のことではあるが、問題は結果至上主義の日本の風潮の中で、いつの間にか「愛の鞭」が暴力にすり替わっていたことだ。「愛の鞭」を定義するとすれば、おそらくやられた教え子の方が「自分が悪かった」と反省し、後に先生に感謝できるか否かがその基準であろう。だがこれを第三者が判定するのは、とても難しい。そこで、もし体罰を根絶するとすれば、少しでも手を上げた指導者を総て懲戒解雇にする他ない。酒気帯び運転で永久免許剥奪もできない社会にこんなことができるはずもないが、それに近い処分を教える側に課せば、益々世の教師たちは委縮し、保護者側はモンスター化するだけである。核家族化と夫婦共働きが進み、家庭内の躾が疎かになっている現在、子供たちの将来を考えれば、今より悪い方向に向かう恐れの方が強い。その上、同級生間のいじめやDVの数は逆に増えることが懸念される。あるコメンテーターが、日本人はオリンピックの「参加することに意義がある」の精神を忘れていると言っていたが、そのとおりである。結局この問題も、日本人全体の意識改革が前提となるのである。なお余談ではあるが、柔道界の指導者選びには、一言疑問を呈したい。「名選手必ずしも名監督ならず」はスポーツ界の常識のはずだが、ナショナルチームの代表監督にどうして男女とも現役を引退したばかりの指導経験の少ない30代の人間を選ぶのだろう? 野球ではプレイング・マネージャーも存在するが、その人がWBCの代表監督になることはありえない。日本中の野球ファンと関係者が許すはずもない。サッカーしかりである。日本柔道が国際大会で結果が振るわないことと無関係なのだろうか。考えてみれば、世界的にヘッドコーチが選手を率いるのが普通の中、「監督」が必ずいる日本のスポーツ界はそれ自体が異色で、いかに日本人が管理と師弟(従)関係が好きなのかが見えてくるいい例だ。
 体罰や肉体的いじめはもちろん精神的なハラスメントも、基本的には暴力である。ではテロとは何か? ここで、改めてテロ(リズム)の定義を調べてみると、大体「暴力を使い、恐怖心を煽ることで、宗教的、政治的目的を果たそうとすること」となる。言ってみれば、教育や指導、人間関係の優劣目的が宗教や政治に巨大化しただけの差である。実際日本にもテロ集団は存在していたし、対外的に現代日本人がテロを行っていないのは、ただ日本が他国と平和を保っているからに過ぎない。歴史的にも国内的にも日本人が非暴力的国民などと到底言えないのは、この「いじめ・体罰」の問題の大きさからも間違いない。会社と日本のため、世界の最前線で危険な状況の中働いている人々のご苦労には福島第一原発で頑張っている方々同様敬意を表する他ない。だが、いかに彼ら自身が平和主義者であっても、日本政府がアメリカとともに軍事行動をとるという集団的自衛権が発動されれば、テロのターゲットとして今の何十倍もの危険が彼らの身に降りかかってくるのは避けられない。同時に日本国内でも反米外国人によるテロが頻発する危険性も無視できない。その防御策としての人種差別も付随することだろう。世界的な右翼化・ナショナリズムの強大化は、平和の敵であり、テロの温床である。結局、いじめられっ子が次にいじめ側に回るように、体罰を受け続けた教え子が体罰指導者になるように、暴力は負の連鎖を生み続ける。私たちににできることは何なのか、一人一人がそれを考えることこそがこれらの問題を解決に向かわせる唯一の方法であると小生は考えるのである。

                                        2013.02.03記

 玉ちゃんの独り言 第15回「ふたりのしんちゃんものがたり」

 むかし、ちょっとむかし、あるところに、しんちゃんというおとこのこがうまれました。しんちゃんは、ものがたりをかくのがじょうずで、せんせいにもほめられ、しょうをとりました。おとなたちは、しんちゃんのかいたものがたりを、えいがにしたいといいだしましました。そこでしんちゃんは、おとうとのゆうちゃんをしゅやくでだすならいいよ、と、こたえました。すると、ゆうちゃんはしんちゃんよりどんどんゆうめいになって、にほんいちのにんきものになりました。しんちゃんはうれしかったのかな。
 しんちゃんは、ものがたりをかくのにあきて、まつりごとをしたくなりました。ゆうちゃんにもてつだってもらい、にんきをあつめて、さんぎいんというところにはいりました。でもあきて、しゅうぎいんというところにかわりました。そこにしばらくいましたが、こんどはとうきょうのおやぶんになりたくなって、やめてしまいました。そのときのとうきょうのおやぶんは、60さいをこえてたので、しんちゃんはとしよりはだめだといって、たたかいました。でも、さすがのゆうちゃんのにんきをかりても、ここはまけてしまいました。そこでしんちゃんは、また、おくにのまつりごとにさんかすることにしました。しゅうぎいんにもどったしんちゃんは、こんどは、にほんのおやぶんになろうとしましたが、ここでもまけてしまいました。やがてしんちゃんはおくにのまつりごとにもあきてしまい、とつぜんやめてしまいました。しばらくしてまた、とうきょうのおやぶんになりたくなりました。このときゆうちゃんはなくなっていましたが、ゆうちゃんのこぶんたちをおうえんだんにして、みごとかつことができました。ところがあるひ、おやぶんのざをほうりだして、もういやだといっていたおくにのまつりごとにまたまたもどることにしました。こんどは、はしもとさんちのとおるくんをなかまにして。もういちどにほんのおやぶんになりたいのかなあ・・・
 もうひとりのしんちゃんは、ずっとあとからうまれました。おとうさんもしんちゃんというなで、おくにのまつりごとのしごとをしていました。でも、むすこのしんちゃんは、おべんきょうがすきではなかったので、まつりごとにははいらないだろうとおもっていました。ところが、もうすこしでにほんのおやぶんになれるはずというときに、おとうさんはとつぜんしんでしまい、しんちゃんはおじいさんのようなつよいおやぶんになりたいとおもうようになりました。にほんのおやぶんはみんなべんきょうのできるひとばかりでしたが、かわりにしんちゃんは、みためとはなしかたがかっこいいとおんなのひととわかいひとからにんきがありました。むかしからおやぶんになるには、たくさんこぶんをつくったり、いろんなやくめをしたりするのがきまりでしたが、てれびでにんきのあったしんちゃんは、なにもしていないのに、ひとっとびにおやぶんのざにつくことができました。でも、なってみるとおやぶんのしごとはとてもたいへんで、しんちゃんは、おなかがいたくなってしまいました。やすめばなおるはずなのに、しんちゃんはやすむかわりにやめたいといって、おやぶんのざをほうりだしてしまいました。それからつぎつぎと、いろんなひとがおやぶんになるのですが、しんちゃんをまねてるのかなあ、みんなすぐにやめてしまいます。そんなとき、さいしょのほうのしんちゃんとなかのよい、とおるちゃんが、しんちゃんがまたおやぶんになればいいといいました。このときしんちゃんは、なかまのなかでのにんきはいちばんではなかったのですが、いちばんのきょうてきが、おじいさんたちにきらわれていたので、ここでもうんよく、なかまのだいひょうになって、ふたたびおやぶんのざをてにすることになりました。
 どちらのしんちゃんも、かんがえかたがよくにていて、けんかでもなんでもつよいことがだいすきです。でも、しんちゃんじしんはつよいひとなのかなあ・・・ よくわかりません。いつか、このおはなしにつづきがあるとしたら、あとのしんちゃんだけでもほんとにつよいひとだったとかければいいとおもいます。                                   おわり

おまけ。

 第二次安倍政権誕生で、株式市場や為替相場が好転している。とても良いことである。基本的に市場経済は、たとえそれが幻想であったとしても一般市民が好転すると思えれば、とりあえずは好景気へと進むものである。だからこそ「泡」なのである。ただ、バブルの教訓をきつ過ぎる位に肝に銘じている企業家たちは、甘い夢を一緒に見てくれるほどお人好しではない。だが国民が夢から覚めないように、次々と手を打っていければ、アベノミックスも成功する可能性がある。願わくば、今年が日本全体にとって良い年になりますように。頼むぜ、晋ちゃん!

                                           2013.01.03記

        玉ちゃんの独り言 第14回「集団的自衛権について」


 
 先日、森光子が亡くなった。92歳の大往生である。最晩年のインタビューで、これまでの人生を振り返るコメントを求められた彼女は、「平和」と口にした。てっきり芸道の話が出るものと思っていた聞き手は、かなり驚いたようだった。計算すれば、17歳の時、盧溝橋事件が起こり、25歳に終戦を迎えたわけだから、彼女の青春期は、戦争とまさに生きるための闘いの日々であったはずである。この世代の人は、小生の親も含め、あまり戦時中の話をしたがらない。どれだけ辛い目に会ったかを、ほとんど語ることなく、逝ってしまう人が多い。一方、本当の戦争の悲惨さを味わあなかったその時の子供世代は、割と話をするようだ。そして、自分たちが戦わずして負けてしまった当時の国家体制や戦後の屈辱が、多感な時代の彼らに大きな影響を与えているのではないかと推測される。例えば、石原慎太郎氏以降の世代だ。もっとも彼の場合は、その反発エネルギーで、「NOと言える日本」等を著し、今も政治活動の原動力になっているとすれば、数多いるタカ派政治家のなかで、珍しい反米主義者であることも納得できる気がする。ただ、ほとんどのタカ派政治家、評論家は、親米・安保強化論者である。そして、ほぼ例外なく集団的自衛権行使を目指している。
 では「集団的自衛権」とは、いったい何であろう? 「知っているよ、そんなこと」と怒られそうなので、語句の意味の説明は省くが、問題は、現実にどこまで行使されるかであろう。小さなテロを除けば、アメリカ本土が攻撃され、日本がそれを助けに行くことがあるとは、考え辛い。アメリカ本土が戦場になるとすれば、それは第三次世界大戦勃発、人類滅亡へのカウントダウンに他ならない。もし、日本が他国に攻められたら? この可能性も、安保条約が有効である限り、無きに等しいが、敢えて有るとすれば、集団的自衛権と関係なく、米軍は反撃を開始するだろう。たぶんそれは、安保が無くても、同様ではないか。何故なら、アメリカという国は、世界の警察を自負する、超おせっかい国家であり、さらに日本に武力攻撃をする可能性のある国は、元々アメリカにとっても仮想敵国であるからだ。大の好戦国家であるアメリカにとって、こんなチャンス(!)はまたと無い。もちろん領有権で揉めている小さな島一つでは、動かないだろうが・・・  では、集団的自衛権が発揮されるシチュエーションとは、いかなる時であろう? まず、アフガン戦争。これとビン・ラディン殺害は、アメリカにとっては9.11の反撃(報復)であるからして、当然、自衛隊(安倍首相誕生の際は、「国防軍」かな)は参戦しなければならないであろう。では、イラク、湾岸戦争などは? これらは多国籍軍としての軍事行動なので、いかなくても良い解釈も可能かと思う。だが、行かせたい人達は、アメリカ軍の武器や輸送手段に銃弾が飛んで来れば、たとえ兵が無事でも、集団的自衛権の行使に何の障害もないとの見解を採っている。つまり、アメリカが関わる全ての戦争に付き合わざるを得ない理屈になる。たとえば、今後起きるかもしれないイラン戦争に自衛隊が参戦する可能性は高くなる。イランといえば、自他ともに認める親日国であり、日本に対してこれまでも、たぶんこれからも武力行使することはないと思われる国だ。脱原発が叫ばれている今、石油のみならず日本を助けてくれている友人を、我が自衛隊員達は自身の命を犠牲にしてまで、殺さなければならなくなるのだ。何のために? 誰のために? アメリカとて日本にそんなことは頼みもしない(アメリカは、金と物資の補給をしてくれれば、充分なのだ)。何故ならアメリカは、そしてアジア諸国をはじめ世界中のいかなる国々も日本の軍事大国化路線を歓迎はしていない。
 確かに、憲法上微妙な立場のまま、たまのPKOや災害救助を除けば、日々演習ばかり繰り返している自衛隊の人々に対しては、小生も感謝だけでなく気の毒に思うことすらある。仮想敵国を明確に出来ない幹部たちの心情も察するに余りある。だが、国家の政治は人情で動かしてはならない。国民の生命・生活・国益が最優先なのだ。にもかかわらず、戦争をすれば、国民の命は奪われ、現地で生活する邦人の安全は脅かされ、国内でもテロが頻発しかねない。自衛隊員に多くの犠牲者が出た場合、志願者が激減することも考えられる。彼らは日本を守るために命を落とす覚悟は出来ているだろうが、全く日本のためにならない戦いで、しかも友好国相手に、殺し合いをしたいと思っているわけではないだろう。こうした場合浮上するのが、徴兵制だ。おそらく集団的自衛権行使に前向きなタカ派議員達のほとんどは、徴兵制も歓迎に違いない。もしそうなっても、自分たちが戦場に行く可能性はないのだから。願わくば、彼らの子息や大切な身内から徴兵して、最前線に送るシステムを一緒に作って欲しい。その次は、法案に賛成した議員、そしてその議員たちを国会に送った支持者、さらに反対票を投じなっかった総ての有権者とその家族の順に。
 言うまでもなく、集団的自衛権の行使は、明確に平和憲法に違反している。百歩譲って、国民の多くが望んだにしても、それは憲法改正後に制定するのが筋である。異常ともいえる法律の拡大解釈は、戦争よりも国家国民にとって恐ろしいものとなりかねない。だが残念なことに、この問題は、今回の選挙の争点にはなっていない。自民党だけでなく、第三極と呼ばれている方々も、野田首相も、みんな賛成だからだ。民主党に至っては、ハト派の小沢元代表や鳩山元首相を切ってまでタカ派路線にシフトしようとしている始末だ。アメリカの二大政党制が機能しているのは、タカ派の共和党とハト派の民主党が交互に政権を担っているからに他ならない。総主流タカ派に近い現在の日本とは大違いである。小生も憲法9条改正に反対ではない。だが、現憲法がある以上、集団的自衛権の行使には断固反対したい。もちろん異論があるのは当然であるし、またそれはそれでとても良いことなのだ。今回の選挙で、政界地図がどのように変わっていくのかはわからないが、将来の政界再編の「踏み絵」はここであると宣言して、今年最後の「独り言」としたい。いつも読みにくい文章を読んでいただき、ありがとうございます。
 では、来年が、皆様と日本と世界にとって良い年でありますように。

                                       2012.11.29記

玉ちゃんの独り言 第13回「総理の資質」

 

 誰と誰の思惑なのか、総選挙は意外と先延ばしになっている。もちろん政権の座と議席を減らしたくない民主党にとっては当然のことであり、落選が予想される1年生議員に至っては死活問題に違いない。だが、もっと違う勢力の影も・・・ 
 とにかくこの2、3か月で、次期総選挙最大の目玉であった橋本氏率いる維新の会の人気と勢いが削がれたことだけは間違いがない。維新の会は、自民党総裁になれなかった場合の安倍氏を首相候補として担ぐ気だったらしいが、それもなくなり、首班指名に党首の名前を書けない状況に陥っている(土壇場での橋本氏の出馬の可能性はゼロではないが、小生はないと見ている)。一部の週刊誌等は、橋本氏こそが首相にふさわしい政治家だと煽っていたが、最近はボルテージが下がり気味だ。だが小生は、原発や領土問題で最近ぶれたと批判されている氏に逆に(初めて!)好感を持った。小生が思う最高権力者や指導者の一番の必要条件は、バランスの良い理想と現実の追及である。遠く進む先と足元の両方を見ながら、その時々に応じて臨機応変な対応が出来る人物こそ国家や人々を危なくない道へと導けるのではないだろうかと。正しい道に導いてくれるように思われた指導者が、知らぬ間に一歩間違いとんでもない所に行きついてしまうことは、数々の歴史が証明している。元首や首相に必要なのは、まず国民の生命と生活の安全、次に大きな意味での国益を守ることである。当然のことながら、普通の地図に点としても載ってない島のために、在外邦人の命と生活の危険、様々な産業に携わる国内外の人々の不利益を被ること、ましてや戦争など論外である。もっとも国民が死のうが、本気で戦争したいと思っているのは、都知事を放り出したあの御仁くらいであろう・・・(彼とて本質的に愚かなわけではないはずなのに、昨今過激すぎる言動で周囲を呆れさせている背景は、小生が思うに、自身の老い先の長さを鑑みた時、彼は最後の戦争での敗戦国民として死ぬのが我慢ならないのではないのだろうか。そのため、理由や相手は二の次で、とにかく戦勝国、強い国日本の指導者の一人として生涯を終えたいと思っているのではないのかという気がしてならない) 大統領のような元首ではない首相に、カリスマ性は必要条件ではないと言い切ってよいと思われる。あって困るわけではないだろうが、カリスマ性と指導力は本質的に別の能力であり、その政治家のカリスマ的人気ゆえ、国民や自治体民が選択を誤ることのリスクを考えれば、むしろない方が官僚組織のトップであるところの行政の長には向いているかもしれない(内閣総理大臣とは、そのような役職である。間違っても立法府たる国会議員のトップではないのだから)。
 毎年のように首相が変わることで、国内外の信用を貶め続けている我が「代議士」達ではあるが、元々彼らしか選ぶことのできない内閣総理大臣は、長らく国民とは全く無縁なかたちで選ばれてきたことで、辛うじてその権威と安定性を保持してきたのである。たとえそれが派閥闘争や密室談義と言われようが。ところが或る時、不思議なカリスマ性を持った変人が、田中真紀子氏の国民的人気を借りて、まさかのどんでん返しで首相になってしまった。時が経ち、冷静に振り返ってみれば、彼の改革は、単にアメリカの要望に応えただけであり(一般的にはそう言われているが、もしかしたら、元々大蔵・財務省よりの彼のこと、アメリカ以上に郵貯と簡保の莫大な資金を狙っていた同省との思惑が一致しただけかもしれない)、国の経済にとってマイナスであったことは、ほぼ検証済みにもかかわらず、まるで山口百恵の引退後のように長く待望論が絶えなかった。彼の大きな魅力は「ぶれない」ところであった。だが、それが日本にとってプラスだったかと言えば、対アジア外交等の側面からも首を傾げざるをえない。ところが、二世批判をしている人まで、小泉進次郎は別格扱いなのだから、政治家の人気ほど怖いものはない。森政権まで、何の意味も持たなかった「総理にしたい人」アンケートの第1位が、次々と現実の総理大臣となってゆく。以前であれば、候補にも上らなかった経歴と実力の安倍氏が、拉致問題時の発言とルックスだけで首相になってしまう。その後どうなったかは、ご存じの通りだが、ここで安倍氏自身の気持ちを推測してみたい。時の竹下総理・自民党総裁から禅譲を確約された彼の父、晋太郎氏は総理の座目前で急逝してしまった。彼は自分に政権の座が巡って時、自身の経験・力不足を自覚していたに違いないが、父の無念を考えた時に、目の前のチャンスは逃してはならないと思ったはずである。そういう意味では、首相になるには、運が必要なのだ。最近では谷垣前総裁がいい例である。安倍氏が政権を投げ出した後、一人おいて、当時の人気1位の麻生氏が首相となる。彼は前任者に早期解散・総選挙を託されたにもかかわらず、政権の座に居座ってしまう。結果そのことが、彼自身の語学力と相まって、自民党政権の終焉に繋がってゆく。その時、総選挙前の人気1位は鳩山兄であった。後から見れば、この人は明らかに総理(というよりは国会議員)に向いてはいなかった訳だが、アメリカと官僚を敵に回した蛮勇は少し褒めてあげたい気がする。「普天間基地を、海外も含めて県外に移転させられないか、その可能性を色々と探ってみたい。沖縄の基地負担軽減のために全力で努力したい」というような言い回しであれば、事態は違った方向へ進んだことであろう。日本一のエリート政治家一家の長男に生まれながら、政治に背を向け、理科系の学者の道を選んだ彼の決断は、今思えば、皮肉にも正しかったと言わざるを得ない。鳩山政権末期の人気は、管氏と小沢氏に二分される。あの時もし、小沢氏が民主党代表になっていたらと考える向きもあるかもしれないが、小生はないと断言していた。小沢氏に、その「運」があれば、彼はとっくに首相になっていたであろう。
 ここ数年で人気者でなかったにもかかわらず、首相になった人といえば、現総理・野田氏と福田氏であろう。福田氏は安倍氏にない安定感を買われ総理になり、堅実な政権運営をしていたのだが、衆議院の任期と当時の自民党と民主党の支持率の変遷を見るにつけ、地味な自分が解散したのでは自民党は勝てないと悟り、自民党政権維持のため身を引き、人気者であった麻生氏に総理の椅子を譲ったのである。辞任記者会見での珍しい感情的な発言の裏には、たぶん本意ではない辞任故のしこりがあったのではないかと推測される。ただ願わくば、自民党のためではなく、日本のために居座る豪胆さが欲しかった気がする。さて現総理はと言えば・・・ 消費税増税に躍起になったのは、財務相時代に官僚に言い包められたのであろうが(あの管氏でさえ丸め込まれたのだから、日本を動かしているのは財務省という他ないのかもしれない)、小泉氏以降の総理としては、無難な方であろう。にもかかわらず支持率が低迷し続けているのは、民主党全体の問題であって、彼個人の責任ではない気がするのだが。
 次期総選挙は、再び政権選択の場となる。自公政権に戻るのか、新党・少数政党の連立となるのか、それはわからない。だがどういう形になるとしても、その代表者が、日本のリーダーとなって、日本を引っ張り、外国にも出ていかなければならないことだけは間違いない。選ばれる人が、適任者であることを祈りたい。

追記。
 これを書いている最中に、石原東京知事辞任の一報が飛び込んできた。新党結成、国政復帰である。彼が脱原発ではないと橋本氏との違いをマスコミは報じているが、日本軍隊を核武装化するのが目標の人間が、原発は危険だと言うわけがないのであって、東日本大震災被災者にも天罰とのたまった御仁である、人の命より国家の威信の方が大切なのは明白なのだ。たぶん人気者の彼のことである、当選するに違いない。場合によっては、重要閣僚になるかも知れない。だが、人は簡単には変わらない。特にぶれない人は。小生としては、彼の目的が日本のリーダーになることではなく、政界再編の起爆剤に徹することを期待して止まない。
 最後に、「独り言 第11回」において科学技術庁長官を辞めたのは、石原氏ではなく立川談志氏の間違いでした。お詫びして訂正いたします。

                                          2012、10、26記

玉ちゃんの独り言 第12回「AKB48と報道」

 
 
 ここのところ政治ネタが続いたので(言いたいことは山のようにあるのだが)、敢えて軽めの話題で。
 私は、年甲斐もなくAKB48のファンである。もっとも「ヘビーローテーション」までほとんど何も知らなかった俄ファンではあるが。私がこのグループに興味を持ったきっかけは、第2回のAKB総選挙の後のインタビューで、あるメンバーが、自分の順位より、「(1位の)1期生が(前田敦子)が2期生(大島優子)に負けたのが悔しい」と泣いていたのが印象的だったからだ。オールナイターズ・おニャン子クラブの時代をよく知るものとして、現代日本教育の失策とも云える「非競争主義」お友達集団を根底から覆すような少女軍団を、同じ秋元康氏が作ったことに、とても興味を抱いたのだった。「つんく。」Pと食事する仲だという秋元氏は、おニャン子クラブの長所に、モーニング娘の持つ厳しいライバル心や体育会的上下関係を融合させたわけである。おまけに初期のマスコミ露出を敢えて抑えることによって、秋葉原のITネットワークに長けたオタク族の心を擽ることに成功したのだから、遅かれ早かれ人気がブレイクすることは確信していたはずで、まさに計算通りとほくそ笑んでいることだろう。だがいつか必ず人気は陰るもので、前田敦子の卒業騒動を頂点として、今後はより厳しい舵取りを迫られるに違いない。
 その「前田卒業フィーバー」に便乗したマスコミの多さと節操のなさに、嘆いた人も少なくなかったようだ。秋葉原の街中に張られた「あっちゃん」の巨大ポスターは、様々な出版社からの無料提供だそうである。アイドルでありながら、際どい水着写真までこなす彼女たちに、表紙・グラビアでお世話にならなかった雑誌の方が少ないのであろう。NHKが定時ニュース番組でこのことを取り上げたことには、批判が殺到していたが、私に言わせれば、それは無理からぬことなのだ。なぜなら、初めからNHKという報道局は完全中立的存在ではないし、何よりNHKはAKBが大好きなのだ! 人気が出る前から紅白歌合戦に出場させたり(今年もAKB48は応援団として、全歌手中1番に出場を決めている)、彼女たちのドキュメント映画を幾つも製作したり、いろいろな番組で売れていないメンバーを起用したりと、もはやAKB運営側と繋がっているかの如くの可愛がりようである。
 天下のNHKでさえ、このような身勝手とも云える報道姿勢なのであるから、民放マスコミに不偏不党や客観冷静を望むのは、無理な相談と言わざるをえまい。少し前、ある若手人気俳優が自身のブログかツイッターで、お台場の放送局が韓流ドラマに毒されているように語って、干されてしまった。普通であれば見逃される程度だと思われた呟きが、大問題のように扱われたのは、身に覚えがある局の方がその強大な力を発揮したと思わせる出来事であった。もしその陰に、大衆操作を試みる勢力があったとしたら? 注目事件等が起きると、それ一色になってしまうマスコミ(特にテレビ)のことを、我々はよく作り手のレベルが低いかのように批判しがちだが、作り手側に言わせれば、レベルの低い国民に仕方なく合わせているということになるのだろう。それは昨今の領土と政治の問題にしても同様である。新聞社はそれぞれの方向性を持って記事を作り、系列の雑誌・テレビ局の報道もその延長線上で語られる。毎日同じ新聞とニュース番組を見ている人が、洗脳とまではいかなくても、影響されるのは時間の問題なのだ。事実と真実は違うとよく言われるが、我々が日々目にしているものが、マスコミのフィルターを通して出てきたものである以上は、我々はその報道事実を常に疑ってかかるくらいの慎重さと裏の意味を読み取る冷静さを持っていたいものである。

 

                                         2012,9,30記

 玉ちゃんの独り言 第11回「領土問題、そして総選挙」

         このところ尖閣、竹島問題がやたらに騒々しい。一見するとこれらは、中・韓両国が突然日本側に仕掛けた感があるが、必ずしもそうとは言えないのではないか。確かに、韓国の現大統領の竹島訪問は突然であったが、必ずしも韓国国内政権の事情だけでは片づけられなさそうである。北方領土に現ロシア首相にして前大統領でもあるメドベージェフ氏が訪問した際の日本側の情けない(あちらにとっては都合の良い)対応を参考にしたはずであるのは間違いないところであろう。ロシアにおける北方領土同様、竹島を実効支配している韓国からすれば、尖閣を実効支配出来てない中国より、ロシアの方が対日的によりお手本になることは当然である。とすれば、政府のみならず我々国民も、中国と韓国が裏で連携しているかもなどと単純には考えないで、ロシア、そして(領土問題はないが、拉致その他懸案は最も多い)北朝鮮まで含めた複合的外交を進められる体制づくりを意識していかなければならないであろう。
 中国の尖閣諸島問題が活発化した原因は、言うまでもなく東京都の魚釣島等の購入意志発表であるに違いない。しかも反中国で有名な知事は、当初自分たち都が動いた後、国が買う気であれば譲るかの発言をしていた。何故だか今は、国(正確には民主党現政府)に譲る気はなくなったらしいが・・・ そのことと総選挙が近づいてきたことは、無関係だろうか? 政党設立、国政転身まで噂されている彼である。現在、人気No.1の政治家である大阪市長との連携がどうなるかによって、事態は大きく変わってくるからだ。
 大阪維新の会は、現在マニフェスト作成中であるが、その中には明らかに改憲しないとできないような事柄や衆議院議員定数半減のような現実的に実現不可能な政策が盛り込まれている。国会議員を一人も持たないグループゆえの理想論は必ずしも方向性としては間違っていなくても、それを餌に国民を釣るのは前回の総選挙で民主党が行った過失より、さらに罪深いやり方と言わざるをえまい。何も小生は維新の会の台頭を全面的に否定しているわけではない。だが、喉元過ぎれば熱さ忘れる国民性を危惧せずにはいられない。あの国民の総選挙への関心の高さと、結果としての政権交代は決して間違いではない。むしろあまりに遅すぎた故のツケが素人集団である民主党政権の失策として表れているに過ぎない。それは本当ならもっと早いうちに国民が支払うべき代償であったのだ。政権担当能力のある政党や大臣の資質を持った代議士を育てられなかったのは、国民自身のせいなのだ。したがって、若く志のある未来の閣僚を輩出するのは、長期的に見れば良いことではある。だが彼らに即政権を担当させることは、前回の轍を踏んでないばかりではなく、この危機的状況にある日本をさらに危ない方向に導くことに他ならない。念のために付け加えておくが、小生は橋下氏が嫌いではない。ただ、ほんの数年の政治歴、それも地方の首長しか経験のない(首相になる資格である国会議員ではない)人物を、まるで首相候補のように扱うのはどう見ても愚かなことだと言わざるをえない。さらに、彼らが首相候補として担ごうとしている人物が、ほんの数年前軽い病を理由に政権を投げ出した元首相だとすれば、それにも疑問を感じずにはいられない。かの元首相こそ、国民的人気の高さだけでは閣僚経験の無さを補えないことを如実に示してくれた人物に他ならないからだ。
 選挙が近づくと、現職・前職を問わず代議士たちは右往左往する。その集まりである政党も、より人気のある候補者や広告塔を求めて節操のない戦いを繰り広げている。有権者からすれば、本当に選択に迷い、人によっては投票する気を失わせることにつながりかねない状況だ。だが我々は必ず選択しなければならない。我々の選択を海の向こうの隣国が手ぐすねを引いて待ち構えているのである。領土問題は、最もナショナリズムを喚起するものであるから、保守的あるいは右急進的政治家に人気が行きやすい傾向があるが、我々が真に選ぶべきは、この日本を傷ついた日本を、来るべき未来に正しく着地させることのできる政治である。残念ながら、既成政党や今人気の政策集団に、それを即望むのは酷であろう。しかし、遠回りに思えるかもしれないが、本当に政治的な志向の近い人々が政党を構成する日が来るまで、たとえ紆余曲折を経ようとも、政権交代と政界再編をし続けるしか道はないのである。

                                         2012,10,26記
 

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